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「Syn:身体感覚の新たな地平」を観た

虎ノ門ヒルズのTOKYO NODE開館記念作品「Syn:身体感覚の新たな地平」を観ました。

美術展などを開催することを想定した箱だと思うのですが、開館記念でダンスパフォーマンスを講演しています。
中に入ると、3つのゾーンに分かれていて、各部屋でパフォーマンスを見て、グループ単位で次の部屋へと移動していく形です。

すごかったのが、2つめの部屋の演出。
体験時間としても、この部屋が突出して長く、メインになっています。
プロジェクションマッピングに出会った時以来、映像技術として10年ぶりの衝撃かもしれません。

この部屋に入る際、3Dグラスを渡されます。
部屋に入ると、近くにロープが置かれており、ロープが鑑賞エリアのラインになっています。
真っ白な部屋の目の前には、大きな壁が。
壁には左右に少し隙間があり、部屋が奥まで縦長に続いていることがわかります。
そして壁に丸い物体が投影され、ドクドクと波打っています。
浮いている球は3Dの定番で、距離感が掴みにくく立体視しやすいものですが、今回は壁に仕掛けがあります。
壁自体が可動式で、物理的に後ろに下がり、連動してプロジェクターも後ろに下がるため、壁へのプロジェクションもそのまま下がっていきます。
元々距離が掴みにくかった3D物体との距離がさらに開いていくため、距離がどんどん掴めなくなっていくのです。
プロジェクションマッピングと3Dとの相性の良さを思い知らされます。

そしてダンサーが登場し、プロジェクションとダンスの融合が見られます。
壁が可動式のため、鑑賞空間も拡大縮小をとげ、ついには目の前のロープも動かされ、客側の鑑賞エリアも変わっていきます。
3Dグラスをかけて投影物を立体視しながら歩いていくことで、既に距離感が掴めなくなっているのにもっと距離がわからなくなります。

そして最大の衝撃が、ダンサーに向かって当てられるライトです。
ロープを動かして鑑賞エリア移動を誘導している係の人が、懐中電灯を持っており、それをダンサーに当てるのですが、その懐中電灯が2つ繋がった形になっています。

双眼鏡のように、ライトとライトが隣り合わせになっている形です。
これが偏光ライトで、右目で見えるライトと左目で見えるライトが連なっているのです。
偏光ライトがダンサーに当たることで、右目で見える影と左目で見える影が発生します。
すると、影が立体視されるのです。

5分で作った原理っぽい雰囲気の絵

本当は偏光による立体視のはずですが、わかりやすそうなので赤青メガネで説明します。
赤いライトと青いライトが繋がっていて、そこから人物に光を当てると、それぞれの色の影ができます。

これをメガネを通して見ると、青メガネからは青い影は見えず赤い影だけが見え、赤メガネからは青い影だけが見えます。
左右で違う影が見えるため、影が立体視されるのです。


メガネを外して見ると、影は2つあり、3D映像を裸眼で見たときと同様のブレた映像のように見えます。

壁の上に影が浮いているような状態に見えます。
人の影が立体視される初めての体験。
初めは何が起きているのか理解できませんでした。
前後に人が立っていると、前の人の影が後ろの人の体に映るわけですが、その影が立体視されているので、体に影が映っているというより体の上に影が載っているような感覚に陥ります。
影の視覚情報が混乱し、奥行き感がぶっ壊されました。
さらに、客側にもライトが当てられ、自分たちの影すらも立体視されていくのです。
自分が動くことで3D映像が生成されていくような感覚です。

3D自体が錯視ですが、錯視映像を見ることで現実の視覚が狂っていく、まさに身体感覚と向き合わされる体験でした。

これまでの3D映像は、最初に球体の映像を見ていたように、実際に存在する3次元物を映しています。
2次元の平面映像を用いながら、本物の3次元物体に見えるよう再現しているのです。
それに対して影は、元々が2次元の存在です。
本来2次元のものを立体視するという、まさに次元を超えた世界。
これまでの3Dの見方と全く別のものになります。
ほぼ常時目にしている影という2次元の存在が、初めて立体的に見えてくるのは「身体感覚の新たな地平」の名にふさわしい体験でした。

ミュージカル「ミーン・ガールズ」を観た

ミュージカル「ミーン・ガールズ」を観ました。ブリリアホールに行くのが初めてだったので、これ設計したやつ誰だよ感情はやっぱり芽生えましたが、それは置いておいて。
主人公は、アメリカに住む女の子。16歳でアメリカの高校に転校します。そこでスクールカーストの中に巻き込まれていくという、アメリカの学園者としてはよくある流れです。この作品が面白いのは、アフリカから来たという要素がただの文化の違う田舎という記号になっていないこと。アフリカでライオンや象たちの食物連鎖の世界を見てきた彼女がその視点でスクールカーストに向かっていくという構造が面白かったです。
音楽にもアフリカンミュージックが所々取り入れられていて、ミュージカル楽曲と融合する様子も、ストーリーと合っていました。ライオンキングやアニマルキングダムで聞いていた、アフリカ音楽っぽさの知識が役立ちました。
ストーリーは、基本的に彼女の周りで起きてきたことだけで進行し、一方その頃〜のようなサブストーリーはほとんど発生しません。その分主演が出ずっぱりで大変そうでした。
個人的に幕までセットが大きく変わる舞台が好きなのですが、この規模のセットで起きることはまずありません。そんな中、セットを変えるのではなく(ネタバレ避けでぼかしますが)そこを変えたかとなり、好きでした。
プロットが寄り道しないので、物語はかなりテンポよく進みます。序盤でこんな話になるかなと予想した展開は早々にそんな感じの場面を迎えてしまい、じゃあこれから何を描いていくのかというワクワク感もありました。ギャグなど笑えるシーンが多々あるのでそんな感覚はありませんでしたが、振り返ってみると結構詰め込んだ話になっているように思います。序盤で伏線ぽいたけれど尺的に回収できなさそうだなと思った部分までしっかり回収されていて、無駄のなさを感じます。
スピーディーに話がスイングしていく中でも一貫して描かれているのは、自分の素の姿で自分らしく生きていこうという強いメッセージです。ガールズパワーだけでなく、様々な属性のを持つ人をも巻き込んで自分らしく、生きることを表現していく姿は、非常に近年の作品らしさを感じました。
ピンクで着飾り学校で生き抜いていくパワフルなで、ハッピーなミュージカルは「キューティ・ブロンド」を思わせます。ミーン・ガールズで検索しても関連にキューティ・ブロンド出てくるし。「キューティー・ブロンド」は2019年に観て、本当に大好きな作品でしたが、もうあの姿ので観ることは二度とできなくなってしまいました。どうしてもそのことが心にもたれかかってきていう気がしていて。この1年、あまりミュージカルを見ていなかったように思います。今回、雰囲気から似た作品を観られたからこそ、それでもこの世は生きるに値するという強いメッセージを受け取れたように思います。救われた気がします。
主演の生田絵梨花さんは、一昨年、帝劇のレミゼで観たことがありましたが、ブリリアでも聞きやすく、そして何よりこんなに男性比率の高い客席は初めて見ました。

オンクラ

ディズニー・オン・クラシック2020を見てきました。
今年は指揮者やボーカリストが来日できないため、全員日本人キャストという、それオンクラの良さ死んでないか?と思ってしまうような編成です。
実際今年は映画全編をやらずにガラコン形式で初演オマージュプログラム。
しかしそこはさすがオンクラだなと思わせる内容。
というか、オンクラだから2020年11月に公演ができているのでしょう。
そのおかげで生のディズニー音楽を聴くことができました。
マンマミーアは観に行ったけれど録音だったし、まあパークのバンドとかはいるけれど、オーケストラの音楽は今年度ではじめてです。

ああやっぱりディズニー音楽は心地良いなとか、結局リトル・マーメイドのメインテーマで泣くとか、最後にオーケストラのディズニー音楽を聴いたのは美女と野獣コンサート(もといメンケン来日コンサート)だったなとか。

途中で琴奏者が出てきて、眠れる森の美女をやるのですが、その前に「さくらさくら」を弾きます。
もうディズニーとは一切関係なくただ琴の音色を聴くのですが、こっちの身体は完全にディズニーモードなんですよね。
そうすると脳がバグって、EPCOT日本館にいる感覚に陥りました。
日本で日本人が日本の楽器で日本の曲を弾いているのに、なぜフロリダにいる気分になるのか。
ディズニー関係で最も日本っぽい場所をEPCOT日本館だと認識している自分にちょっと驚きました。

ピーター・パン2はパリのDisney Dreamsの記憶しかないよなと事前に思っていましたが、聴いてもやっぱりDisney Dreams!
むしろDisney Dreams!のアレンジと異なるところで違和感が出るほど。
しかしストーリーをざっくり見ていると、プー僕とメリポピリターンズで見た構成とかなり似ているんですね。
同時代の英国児童文学に対してディズニーの続編が同じよ展開を生んでいるのは不思議でもあります。
今度ちゃんと見直してみよう。

一応今年のメイン映画っぽいのはライオン・キング。
サークル・オブ・ライフというテーマが今年はずっしり来ます。
動物たちの命の物語を人の手で描いた映画で、それがミュージカルとして新たな価値観を与えられ、より人間も自然の一部だと感じさせる作品になっています。
それを人間が楽器で表現しているということが、久々のオーケストラであることで強く感じられました。
海宝直斗さんにインタビューしたとき、ディズニーミュージカルは共通して「人生は生きるに値する」ことを伝えていると言っていました。
ライオン・キングはまさにそのことを強く訴えてくるような演奏でした。

「マンマ・ミーア!」を観た

劇団四季「マンマ・ミーア!」を観ました。
今年はミュージカルが豊作だとか、ニュージーズがジャニーズ主演になってチケット全然取れないとか言っていたあの頃…
マンマ・ミーアも3月から5ヶ月ほど公演予定でしたが、4ヶ月間開幕できず、公演は1ヶ月に。
それでも観られただけよかったです。

舞台を観るのは3月末の「アナスタシア」以来4ヶ月ぶり。
マンマミーアは映画から入ったのですが、それも昨年のことで、ミュージカル版を見るのは初でした。

いろいろ好きな曲はありますが、完全に予想外なことに、Thank you for the musicで号泣してしまいました。
結構冒頭の方だし、正直マンマミーアの中でいえばそこまでメインのシーンでもない。
なにせその次の曲が表題の「マンマミーア」です。
ここで泣く場面じゃないはずなのに泣いてしまったのは、その歌詞がどんぴしゃだったからだと思います。

四季を観るのは久しぶりで、序曲の時点でそうかオーケストラなしか…と思いましたが、それでもやっぱり生の演技、そして生歌は素晴らしいんですよね。
そしてそんな生歌の良さがそのまま歌われているようなのがThank you for the musicで。
そういう点では詞を重視する四季だからこそ響いたのかもしれません。

割と冒頭で泣き始めてしまったので、その後はほぼ泣きっぱなしでした。
再開一発目がマンマミーアだったのは何か象徴的だったなと思います。
再開一発目とはいえ、二発目の予定は全然なくて、今年残っているのは宝塚版の「アナスタシア」だけです(東京公演は来年)。
宝塚も大変そうですが、なんとか頑張って欲しい。。。ほんとに。。。

キューティ・ブロンドを観た

色々あって急遽キューティ・ブロンドを観に行きました。
シアタークリエ ミュージカル『キューティ・ブロンド』
よかった。めっちゃよかった。
ここ1週間ずっとサントラ聴いています。
最高。

主人公はブロンドの女の子エル。
プロポーズされるかと思ったデートで彼氏ワーナーに「上院議員を目指す自分の妻としてブロンド娘はふさわしくない」と振られ、ワーナーの望む女になろうと猛勉強しワーナーが通うハーバードロースクールに合格。
しかしワーナーには既にロースクールに新しい彼女がいて、エルは見返し奪い返すために一人前の弁護士を目指して奮闘していくという話。

何が良かったのかというと、エルがとにかくポジティブで周りまで幸せにしていく存在なこと。
ポジティブで周りまで幸せにしていく物語が大好きです。
ラプンツェルの「I’ve Got a Dream」のように、荒くれ者に夢を追わせるような存在。
弁護士になろうと他者を蹴落としても勝つような固い世界の中で、自分のカラーを消すことなくポジティブに突き進むエルが、弱肉強食すら変えてみんなを幸せに変えていく最高に心地良いストーリーでした。

プリンセスは「ロイヤル」に変わる。ソフィア最終話が見せた新境地|舞浜横丁とか、最近「プリンセスはこうあるべき」みたいな像について語っていますが、根底にあるのは最近のディズニーの「プリンセス」マーケティングのもやもやです。
プリンセスという名前に色々着せすぎだろう、プリンセスじゃないやつ混じってるだろうと。
Dream Big Princessではプリンセス呼称を自ら否定したモアナを担ぎ上げ、単なる夢見る女の子という意味に変えてしまうのは変だろうと。
お姫様として扱うなら責任のある「ロイヤル」であるべきだというのが今の結論ですが、そもそもプリンセスという括りをやたら拡大するマーケティングがおかしいのです。
今の「ディズニープリンセス」に着せている夢とかは王家とか全く関係なく、本来プリンセスではなくヒロインの意味で使うものでしょう。
そういう視点で見たときにエルは完璧なヒロインです。
自分のその時の夢を追いかけ続け、自分のカラーを守り、周りにも影響を与える明るさを持つ。
深いこと考えずに主人公を思いっきり応援して自分まで幸せをもらえるような、まさにキューティ・ブロンドのような物語を求めていたんだと気付きました。

空想ペルクライム/Les Nankayaru

8/24〜27、中目黒キンケロ・シアターにて『空想ペルクライム/Les Nankayaru』が公演されていました。
http://www.nankayaru.com

僕はふわっとしたお手伝いをしていました。
ふわっとしたお手伝いは公演中が一番暇な時間なので、楽屋のモニターで全公演観ていました。
あとはラジオ「花奈澪のコンフェティ☆シャワー」の生放送が本人の舞台と被るという事態のため急遽代打としてラジオをやったりしていました。
楽屋中継に出ていただいた皆さんありがとうございます。
さらに不思議なことに1公演だけ客席で鑑賞することができました。
正しい解釈などない舞台だと思いますが、感想を残しておきたいと思います。

『空想ペルクライム/Les Nankayaru』は、1部が芝居、2部がレビューショー(生演奏)という、小劇場とは思えない内容の舞台です。
「なんかやる」シリーズとしてはある意味順当な(訳:狂った)進化です。
構成だけでも狂っていますが、細部にも「なんか」やりたいことを詰めまくっていて、やりすぎて客席が引かないか心配になったほどです。

第1部と第2部で内容は全く異なります。
第2部は生演奏のバンドが増えますが、出演者は変わらず、みんなお芝居とレビューショーをします。
その結果、さっきまで高校生だった人がミュージカルをしたりアイドルになったり。
衣装も第1部で制服だけだったものが、第2部では再現度の高い衣装が次々と変わっていき、日常と華やかなレビューのギャップが生まれています。

第1部が「未来から見た過去」であり、第2部は「過去から見た未来」です。
『空想ペルクライム』の物語は、要所要所で出演者が「あの時は〜だった」と過去形で振り返る形式です。
青春時代の7週間を振り返った記憶が『空想ペルクライム』でした。
一方『Les Nankayaru』では、レミゼを演じたりアイドルになったり、目まぐるしく役柄が変わっていきます。
仲間たちがアイドルになったりミュージカルに入ったりしたらという、青春時代の妄想のような世界がステージに広がります。
「Another Day of Sun」で始まり「夢」で終わるステージです。

輝かしい夢を見せられる分、第1部の「日常」が対比されるわけですが、『空想ペルクライム』の「日常」には見ていて明らかな違和感があります。

『空想ペルクライム』は、2つの「死」の間、7週間の物語です。
柏木母の死と、奈蔵の死。
柏木を除くクラスメイトからすると、前者は少し遠い人の死、後者はかなり身近な死。
奈蔵の死は8人の人生においていつまでも残り続けることでしょう。

奈蔵の死で物語は終わりますが、語り部として振り返っている彼らは友人の死を受け入れた上で当時を振り返って語っています。
舞台では描かれない、身近な死を乗り越えたときが確実に存在するわけです。
8人は大きなショックを受けたでしょう。
他のクラスメイトや同じ学年の人たちもショックを受けるでしょうが、8人とは大きさが異なります。
周りから見ると、8人の立場は最初の柏木の立場と同じになってきます。
母の死を受けて自分だけ死と向かい合っていた柏木にとっては、同じ立場の人が一気に増えます。
柏木は、奈蔵の死をみんなで共有し、こんな思いを抱えて生きているのが自分だけではないと気付いたことで、悲しみを分け合える友達ができたのです。
みんな日常生活がそれまでと変わらなくとも、人には見せずとも、そこには「死」が隠れています。
常に笑顔だった影には何があったのか、誕生日のサプライズを受けたらどんな表情をしたのか、どうして死を選んだのか。
考えることはあっても、今更考えたって何も変わらない。
「まあ、今となってはなんでもいいんじゃないですか」
時間が経ってからその頃を振り返る時、楽しかった思い出が強調されて思い出されます。

この物語は特定の誰かの視点で進むわけではありません。
それぞれの人物が同じ過去を振り返ることで、話の軸とは直接関係ない枝葉が伸び、話に揺らぎが生まれます。
文化祭に向けた7週間を振り返るとき、「日常」の中から思い出されるエピソードこそ、事件を経て楽しかった思い出として乗り越えるために必要なものです。
個性豊か、ある意味バラバラな彼らが、あの物語の後にそれぞれ乗り越えたものがあり、それが彼らそれぞれの思い出を作っています。
その差が揺らぎを生み、「空想」らしさを出しているのでしょう。

特定の誰かの視点を強制されないことは、あちこちの世界から出演者が集い、ファンもそれぞれの役者の元から集う「なんかやる」において自然に生まれてくるアプローチです。
それぞれ好きな人の視点で物語を観られ、その人の夢を観られます。
もちろん目当てで来たのとは別の人が主役に見えてしまったり、魅力に気付いたりすることもあるでしょう。
単なる演劇でも単なるライブでもなく、出演者それぞれが「なんかやる」ことで生まれる魅力が、「なんかやる」の醍醐味の一つだと思っています。

ふわっとしたスタッフでしたが、4日間でご来場いただいた方々が「なんかやる」を楽しんでいただけたなら良かったなと思います。
あとはラジオ代打回を聞いても懲りずに来月以降も「花奈澪のコンフェティ☆シャワー」を聞いていただけたらありがたいです。

平和な国

22日目

日付変更線を越えて帰国。
機内映画では3回覚醒しました。

何も揉め事が起こらない日本は良い国です。
電車は非常停止ボタンやら線路内人落下で遅れたけれど。
求めているホスピタリティも違います。
アメリカのディズニーホテル<日本のコンビニ
コンビニといえば3週間ぶりに帰宅したら近所のコンビニが潰れていました。
驚いて親に聞いたら、今朝突然潰れていて自分たちも驚いていたところだと言われました。
まじか。浦島事案じゃなかった。

お家についたらとりあえず納豆を食べてお風呂にゆっくり浸かりました。
そして愛しの布団と再会。
即寝落ち。
3週間開けるとさすがに帰国翌日から動かないとまずいので時差は飛行機で合わせてきました。
そもそもお昼寝補正があるので時差ボケに気付きません。

そんなわけで長い長い旅を終えて無事に帰ってきました。
日記をつけることだけはできて良かったです。
それぞれについては舞横を中心に、たまにこのブログやD-labに書く予定です。
たくさんの夢が叶い、新たな願いと想像力そして未来を見つけられた旅でした。
22日間、特に中身のない日記にお付き合いいただきありがとうございました。

閏日を利用して帰ります

21日目

帰ります。
Magical Express(今回はクルーズバスじゃなかった)に乗ってオーランド国際空港へ。
カウンターがあるものは大抵揉めるのがこの旅です。
飛行機も毎回自動チェックインがうまくいかなくて揉めます。
なぜか毎回予約が消えているらしく、復活させて搭乗。
なぜか席が未確定で搭乗5分前に決定。
なぜか搭乗時に変更される。
この時新たな座席券を渡されたのですが、引き換えにJFK→HNDの搭乗券を捨てられるというミス。
飛行機乗ると自分の席に他の人が座っている。
もう何も上手く行っていませんが、連日のフロント揉めで慣れているので余裕。

こうしてLAXにつきました。
羽田行きの搭乗券を再発行して、搭乗待ちです。
着いたゲートと同じゲートから搭乗らしい。
なんとなくもう一揉めくらいありそうな気がしますがもうちゃんと帰れればなんでもいいです。
あ、呼び出し放送が日本語になってる。日本人いるならなんとかなりそう。

住みたい

20日目

最後はたっぷりマジックキングダム。
開園セレモニーからメインストリートUSAの市民が登場します。
ここのメインストリートUSAは街として生きている感じがとても好き。
特にトロリーショーはお気に入りです。
Dream Along with MickeyやDapper Dans、Move it!などを観ていると永遠と終わらず、ほとんどの時間をメインストリートUSAかハブにいました。

トロリーショーでメインストリートUSAに日本人が住んでいることがわかったので僕も住みたい。
シンデレラ城を臨む温かな街、いいな。

かなりのんびりとマジックキングダムの雰囲気を満喫し、最後はWishes。
結局7回観ました。
最後はミッキーに挨拶して、マジックキングダムを後にしました。

大好きなWishesと一緒に、シンデレラ城のこともより一層好きになりました。
この青空には会えなくても、シンデレラ城がある東京にいられてよかった。
EPCOTではシーが懐かしくなり、マジックキングダムではランドが懐かしくなってきました。
たくさんの新しい空気を吸って、舞浜の景色がどう変わって見えるのか楽しみです。
というわけでそろそろ帰ります。

たくさんの出会いにお別れ

19日目

アニマルキングダムで最後のファインディング・ニモ・ザ・ミュージカル。
前ブロック真ん中の通路沿い最後列というおそらく一番良い席で観られました。
この旅でニモ7回観た。

ダイナソーやエベレストにも乗りました。
列車に乗ってラフィキの奥地へ。
特に目的はなかったのですが、ライオン・ガードの催しがあったので参加。
子供と親しかいない列に並び、お母さんからソフィアのペンダントで絡まれ、順番がきたらキャストの指示通り手を挙げてライオン・ガードの誓いを復唱。
見事ライオン・ガードの缶バッチを貰ってPhotoPassという内容でした。
ソフィアのペンダントつけた怪しい大人1人にも子供と同じ対応してくれたキャストさんありがとう。
この旅を通してディズニージュニアのイベントに混ざることに何の抵抗もなくなりました。

続いてはボードウォーク。
やっぱり好きなボードウォークでぐだぐだと遅めのお昼。
そのうちおやつ。
次はボードウォークエリアに泊まる…
危うくレンタルボートしそうになって思いとどまりました。

そのまま歩いてEPCOTへ。
やり残しはなかったものの適当にふらつき(日本館に4回入った)
最後のIlluminations: Reflections of Earth
スペースシップアースは最後まで神々しかった。
何がスペースシップアースを神々しくさせているのかわからないけれど、こんなに偉大なものだとは思っていませんでした。

この旅で出会った大切なものたちに別れを告げて、いよいよ最終日です。