「音楽の危機 《第九》が歌えなくなった日」(岡田暁生著・中央公論新社)を読みました。
2020年9月に出版された本で、イベント開催自粛要請でコンサートが軒並み中止になっているその時に書かれたもの。
その後の第2波・第3波までの間に少し再開したことすら、この本からすると、未来の話です。
危機の真っ只中、後付けの言い訳をできない中で、音楽史を見ながら現状と未来について語られています。
パチンコと美術館に同時に休業要請が出され、それどころか冠婚葬祭や拝観まで不要不急となった世界。
これまで文化は「聖と俗」と区切られていたはずが、全て一括りに不要不急になりました。
それは、文化とは全て「聖」の領域にルーツを持つ同じものであることを明らかにしました。
同じルーツを持つものが、社会の変容と共に区別されていったのです。
本著では音楽の観点から社会の変容と文化の変容を見ていきます。
著者は音楽の中でもメディア音楽すなわち「録楽」とライブ音楽を明確に区別しますが、それもまた社会の変容と共に区別されていったものです。
そしてライブ音楽が「空気」、「聞こえない音を聴くということ」を必要とすること、つまり文化が本質的に「密」が前提に成り立っていることを確認していきます。
ライブ音楽の代表格クラシックコンサートの中でも代表格となっている「第九」は、最終章では合唱まで加わり「さあ抱き合え!」と繰り返されます。
その感覚は「第九」のものであり、批判されながらも、当時の感覚を反映しており、音楽史の重要な一点です。
そして社会の変容と共にクラシック音楽のスタイルも変容を遂げたこと、また実験的な試みをみせようとしてきたこと、それぞれの観点で音楽史を紹介していきます。
クラシック音楽は、楽譜や指揮者が全てを司り、その決まりきったスケジュール性は工場の労働メニューのようです。
一方、ジャズという即興音楽はそれがなく、すごいジャズミュージシャンは、音楽をエンディングまで持っていける人だといいます。
この感覚は『ソウルフル・ワールド』を観た後で分かりやすく捉えることができました。
著者は様々な観点から音楽が反映する社会情勢を見て、それぞれの章でポストコロナ時代の音楽スタイルを探ります。
改めて「距離」と向き合うことになった時代、音楽と「距離」の関係性を見直すことで、新たな音楽スタイルが生まれていくのかもしれません。
社会が変容したのだから新たな音楽スタイルが生まれることは、その観点で音楽史を見てきた流れでは自明のようですが、そこには脅迫性も感じます。
社会が変容しても「第九」は歌われて続けているわけで、古典は古典として生き続けます。
新たな形も模索しつつ、「第九」は元のスタイルが再開できる日まで耐え忍ぶことになるのでしょう。
それでも新たなスタイルを求め続けるのは、全てが元に戻るだけでは、音楽が不要不急なものだったことを認めてしまうことを恐れているからのようです。
音楽が不要不急なものだったことを認めてしまうことこそ、何より「音楽の危機」なのでしょう。