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Detroit: Become Humanを見た(やってはいない)

ゲームをまるでやらずに過ごしてきたおかげでゲームがど下手、下手だからやらないの負のループで完全なゲーム弱者としておなじみになっています。
というわけでどうぶつの森で時間を潰すこともない生活を送っていたところ、いろいろあって「Detroit: Become Human」のゲーム実況を見ることになりました。
もちろんゲーム実況を見ることもはじめてです。
ただ一気見癖はあるので、一気に全部見ました。
去年のGWはスター・ウォーズのTVシリーズをクローンウォーズが6シーズン、反乱者たちが4シーズン、計200話ほど一気見したので、それに比べたらゲーム実況19本くらい余裕です。そんなこともあってゲーム実況見ながらクローンウォーズとオーダー66の話がよぎったのですが、その話を書いたら無駄に長くなったので消しました。

タイトルの「Become Human」とはどういうことかというと、アンドロイドが発展した2038年の世界で、アンドロイドと人間の違いとはなんなのか?という物語です。
そこにはキング牧師の公民権運動を思わせる描写が多く、アンドロイドは人間の奴隷なのか否かという議論が架空の未来というより歴史の繰り返しとして語られます。
プレイヤーはアンドロイドを操作するので、自ずとアンドロイド側の心情に寄っていくのですが、それでも終盤に衝撃の事実が明かされたり明かされなかったり(そこまでの選択によって明かされない場合もあるんだと思う)して、人間とアンドロイドの違いとは何かを深く問いかけてきます。

ゲームの宿命的な制約として、好き勝手にどこまでも歩いていくことはできず、発言や行動も選択肢に出たものしかできません。
Detroitでは、ゲームの制約をアンドロイドの制約として利用していることが凄まじいところ。
さらに、それ以上先に進めないときに見える壁が、アンドロイドに自我が芽生えて制約を取り払うときに壁を破壊する描写をすることで、ゲームの制約とアンドロイドの制約が同じであることをはっきり認識させてきます。
ゲームとしての制約があることで、アンドロイドへの没入感がより強まるのです。
選択によって大量の分岐を作り、プレイヤーによってほぼ被ることがないであろうオリジナルのストーリーを生成するのが、Detroitの大きなコンセプトです。
このゲームの特性をアンドロイド活かしていることに大きな衝撃を受けました。
手描きアニメ、CGアニメ、ストップモーション、実写、小説、舞台、など世の中には様々な表現方法があり、それぞれに特性があります。
その媒体特性を活かした表現を行なっている作品に出会うのが好きです。
Detroitは、プレイヤーの選択で物語を描くゲームの媒体特性を完璧に活かしていると思います。
これ以上の設定は考えられないほど完璧です。
ゲームの特性を最大限に活かした設定がアンドロイドである一方、このアンドロイドの物語を描くのに最適な媒体が選択ゲームだと思えてしまい、両面から見てもゲーム形式とストーリー設定が完璧な取り合わせであることに感動してしまいます。

そして、この取り合わせが生む効果を考えていくと、プリンセス論にたどり着くのです。
https://maiyoko.com/2020/03/3665
Detroitは、自分で選択して未来が変わっていく物語ということで、自分にとってのハッピーエンドが何なのかをプレイヤー自らが見つける物語です。
つまり「Find Your Happily Ever After」を自分ごととして体験させるのが、ゲームだからこそできる体験になります。

ゴールがゲーム側から指定されていれば、途中の選択でもゴールへのルートを考えて合理的な選択をしていけます。
しかし、このゲームは選択と分岐が膨大すぎて、これストーリーに関係なくね?という選択も迫られますし、実際どれを選んでも同じストーリーが進む選択もあります。
そんな中で、プレイヤーは徐々に選択の軸、つまりゲーム内での自分の信念を元に選択を行うようになっていきます。
さらに、ストーリーが進むにつれて、ゴールすら自分の信念により決めるものだということがわかってきます。
すると、ゴールの設定も自分の信念だし、その途中にある道のりも自分の信念ということになり、途中の選択で何を選ぶべきかの悩みが大きくなっていきます。
例えば、なるべく争いたくないと思う人がゴールを平和的解決と捉えたとして、ゴールに最もたどり着きそうな選択肢が目の前の人を殺すだった場合、殺すを選択して自分の理想のゴールにたどり着いても、それは本当にハッピーエンドと言えるのかということです。
これって「プリンセスのパラドックス」のような現象で、自分はどういうヒーローになりたいのか、自分の物語を描く上で非常に大きな問題です。
(「プリンセスのパラドックス」とは「悪魔バスター★スター・バタフライ」で起きるプリンセスらしい行動を取るとプリンセスという立場を失うという状況)
だからこそ、重要人物を撃つか撃たないかのような選択よりも、目の前のモブを不幸にすればゴールが見えるという選択の方が難しく感じてしまいます。

そしてさらにすごいのが、プレイヤーが操作するキャラクターが3人いて、それぞれ別の物語が徐々に交差して大きな事件になっていくのですが、その交差の仕方も選択によって変わってくること。
各キャラクターに選択の軸を持たせて物語を進めていきますが、その軸同士が影響し合い、誰かの選択の軸を守るためには他の人の選択の軸を変えなければならない状況が発生します(選び方によってはしないんだろうけれど)。
1人のハッピーエンドを守るためには他の2人のハッピーエンドを犠牲にする決断が必要になるかもしれないし、当初思っていたハッピーエンドが他の2人に影響されることで実はハッピーエンドではないことに気付くかもしれません。
これを他人(コンピュータ)から影響されるのではなく、別人格を操る自分に影響されていくのが、ゲームならではの感情移入の仕方をもたらしていると思います。

アンドロイドが壁を突き破るゲームとしてのメタ表現、人を撃つか撃たないかよりも拾ったものを返すか返さないかの判断の方が心に重くのしかかる感情の持っていき方、この2点は中でも衝撃的でした。
様々な表現媒体がある中で、ゲームという媒体を全然知らないことにずっと引っ掛かりを感じていましたが、その中で1本見た作品がこれほどの衝撃を与えるものであったことを幸せに感じます。
一切自力でプレイしていないけれど。自分でやったら秒で死ぬ。