月別アーカイブ: 2021年1月

ワンダーウーマン1984

アメコミヒーロー映画を観るのも久しぶりで、MCUが止まっている1年半の間に観たのはハーレークインと今回のワンダーウーマンで2本目。
MCUも次はブラックウィドウだし女性ヒーロー単独作品が続きますね。

ワンダーウーマン単独2作目は、1作目からは未来ながらもジャスティスリーグよりはずっと前という時代設定。
過去も未来も決まっているので、自由に彼女の姿を変えることもできない、難しい設定です。
1作目のキャラクターはみんな死んでいるし、バットマンたちはまだいない。
新たなパワーや仲間は作れない(作っても失わないといけない)。
この制約の中でどうするのかと思ったら、1作目の恋人スティーブを復活させます。
DCは原作を全く知らないのでどの展開でも新鮮で楽しい。
ここですごいのが、スティーブ復活の方法。
手段がヴィランとそれと変わらないのです。
手段だけでなく目的も自分のためであってヒーロー仕草ではありません。
ヴィランと変わらない行動を取ることでパワーが弱まるのも良いですね。
ほぼ神のようなスーパーパワーを持っていると強すぎていつパワーを使うのかの問題になりがちで、大抵は新たなパワーをゲットして勝つ流れになりがちです。
1作目はオリジンとして自分の真のパワーを発揮して勝ちました。
しかし今作は未来(ジャスティスリーグとか公開済の作品)が決まっているため、新たなパワーの獲得が困難です。金の羽もすぐ使い終わりました。
新パワー獲得を使わずにクライマックスに持っていく方法として、自分の行動で自分のパワーが弱まるのはうまいです。
ダイアナは普通の人間より良識もあり、マックス・ロードと同じドリームストーンを使っても、彼女だけは正しく使えると思いがちですが、実際は違いました。
露骨に分断社会を意識させる演出の中で、絶対的な正義側などいないことを見せてくれます。
正義は人物に宿っているのではなく、考えと行動に宿るのです。
ホワイトハウスでの戦いから、ダイアナが石の力を捨てる決断、チーターとの戦い、最終決戦と畳みかける展開は見事でした。
様々な戦闘や心揺さぶるシーンを経て、最終決戦が物理的な強さで戦わなかったのが何よりすごい。
映画は元々2020年6月公開予定でしたが、実際公開された時には大統領が代わることが決まっており、世界はそれどころじゃない状態でした。
ただ、この状況だからこそ、一人一人に語りかけ、個々の行動が世界を救うというメッセージがより効果を増していました。
ダイアナがテレビなどディスプレイを通して語りかけることで、スクリーン前の我々にも語っている構図が、製作時の想定以上にはまったと思います。

音楽の危機《第九》が歌えなくなった日

「音楽の危機 《第九》が歌えなくなった日」(岡田暁生著・中央公論新社)を読みました。
2020年9月に出版された本で、イベント開催自粛要請でコンサートが軒並み中止になっているその時に書かれたもの。
その後の第2波・第3波までの間に少し再開したことすら、この本からすると、未来の話です。
危機の真っ只中、後付けの言い訳をできない中で、音楽史を見ながら現状と未来について語られています。

パチンコと美術館に同時に休業要請が出され、それどころか冠婚葬祭や拝観まで不要不急となった世界。
これまで文化は「聖と俗」と区切られていたはずが、全て一括りに不要不急になりました。
それは、文化とは全て「聖」の領域にルーツを持つ同じものであることを明らかにしました。
同じルーツを持つものが、社会の変容と共に区別されていったのです。
本著では音楽の観点から社会の変容と文化の変容を見ていきます。
著者は音楽の中でもメディア音楽すなわち「録楽」とライブ音楽を明確に区別しますが、それもまた社会の変容と共に区別されていったものです。
そしてライブ音楽が「空気」、「聞こえない音を聴くということ」を必要とすること、つまり文化が本質的に「密」が前提に成り立っていることを確認していきます。
ライブ音楽の代表格クラシックコンサートの中でも代表格となっている「第九」は、最終章では合唱まで加わり「さあ抱き合え!」と繰り返されます。
その感覚は「第九」のものであり、批判されながらも、当時の感覚を反映しており、音楽史の重要な一点です。
そして社会の変容と共にクラシック音楽のスタイルも変容を遂げたこと、また実験的な試みをみせようとしてきたこと、それぞれの観点で音楽史を紹介していきます。
クラシック音楽は、楽譜や指揮者が全てを司り、その決まりきったスケジュール性は工場の労働メニューのようです。
一方、ジャズという即興音楽はそれがなく、すごいジャズミュージシャンは、音楽をエンディングまで持っていける人だといいます。
この感覚は『ソウルフル・ワールド』を観た後で分かりやすく捉えることができました。

著者は様々な観点から音楽が反映する社会情勢を見て、それぞれの章でポストコロナ時代の音楽スタイルを探ります。
改めて「距離」と向き合うことになった時代、音楽と「距離」の関係性を見直すことで、新たな音楽スタイルが生まれていくのかもしれません。
社会が変容したのだから新たな音楽スタイルが生まれることは、その観点で音楽史を見てきた流れでは自明のようですが、そこには脅迫性も感じます。
社会が変容しても「第九」は歌われて続けているわけで、古典は古典として生き続けます。
新たな形も模索しつつ、「第九」は元のスタイルが再開できる日まで耐え忍ぶことになるのでしょう。
それでも新たなスタイルを求め続けるのは、全てが元に戻るだけでは、音楽が不要不急なものだったことを認めてしまうことを恐れているからのようです。
音楽が不要不急なものだったことを認めてしまうことこそ、何より「音楽の危機」なのでしょう。