月別アーカイブ: 2020年11月

『魔女見習いをさがして』を観た

『魔女見習いをさがして』を観ました。
僕は主人公3人で一番年上のミレと同い年という、おジャ魔女どれみリアルタイム世代なのですが、ディズニー以外何も触れていなかったので全く観ていませんでした。
ただ、予告編の時点で好きそうな話だなと気になりつつ、そのために4年分の予習をする勇気はない…という状態でした。
ところが先日公開された冒頭6分映像を見て、おジャ魔女何も知らないのに泣きました。
キャラクターも曲もほとんどわからないのに、勝手に観たい物語を重ねて泣きました。
そこにちょうど都合よく我慢の3連休とやらがやってきたので、プライムビデオで一気見しだしたのです。

見たことないのに何が好きそうだったかというと、『魔女見習いをさがして』は20年前におジャ魔女どれみを見ていた子供が大人になり、魔法を信じなくなった現代の話です。
おジャ魔女の世界ではない現実世界を生きながら、子供のころ信じていた魔女見習いはこの世界に確かに存在すると気付く話…というのを勝手に想像して好きそうな話だと思っていました。
僕はなんだかんだ実はミッキーがこの世に実在するんじゃないかと思っていて、そういうことを感じさせる世界観が好きです。
シナモンとプーが住む世界
プー僕やメリポピ2は大人になって魔法を信じなくなった主人公の話でしたが、『魔女見習いをさがして』は大人になって魔法を信じなくなった視聴者の話。
前者はそもそもプーとかメリーの存在を信じていないと主人公と同じ立場になれませんが、後者は誰であろうと主人公と同じ立場になれます。

で、おジャ魔女を見てみると、想像以上に『魔女見習いをさがして』に期待した世界観の土壌がありました。
魔法を扱う作品ってだいたい2通りで、世間が魔法を認識している世界と認識していない世界があります。
おジャ魔女どれみの世界は後者で、その世界は現実世界とリンクさせやすいものです。
特におジャ魔女は普通の人間に魔法の存在を知られること自体が禁忌に近く、何より魔女の物語なのに魔法を使わないで解決することに大きなテーマが置かれています。
特に1期はこれといった敵がおらず、メインストーリーはひたすら検定1級を目指すというのもすごい。
どれみは「世界一不幸な美少女」というキャラクターで登場するけれど、友達が増えるたびにどれみの境遇は不幸じゃないように見えます。
一言で言えば優しくておせっかいなだけ。
しかし、最終話の主人公っぷりが凄かった。
その力こそ魔法で、魔女としての魔法ではなく人間としての魔法を選択した話なんですね。

『魔女見習いをさがして』は、大人になって魔法を信じなくなった3人の話で、おジャ魔女どれみが引き合わせた縁によって友達になる話です。
魔法を信じなくなったとはいえ、神社にお参りはするし、縁は感じるし、それは普通の人も感じるちょっとした魔法みたいなものです。
彼女たちはおジャ魔女の縁だしということで、少し魔法を信じてみます。
その後に言う「友達になれたと思ったのに錯覚だった」という台詞が印象的でした。
住む場所も年齢も違う3人が友達になれたと思った、それを魔法のように感じていたのに錯覚だったと。
おジャ魔女作中での魔法は普通の人間には夢や錯覚のように捉えられていました。
そして、彼女たちはアニメーションとしてその世界を見ていましたが、アニメーションとは静止画が連続することで動いているように見える錯覚です。
静止画が高速に切り替わることで動いているように見えるアニメーションとは、少しずつ動いているけれど遅すぎて止まっているようにしか見えないガラスの対比のようです。
シリーズが完結に向けて静かに動き出すエピソード「どれみと魔女をやめた魔女」では、魔女と人間の時間軸の違いとしてガラスの話が行われ、どれみはガラス玉を眺めます。
おもちゃの魔法玉を持って大人になった3人も、おもちゃの魔法玉を眺めます。
おジャ魔女どれみを観ていた彼女たちは、子供の頃アニメーションという錯覚を超えて魔女見習いになりきっていました。
錯覚を魔法だと分かるのが魔女と魔女見習いの力です。
アニメーションによって繋がった3人が友達になったことが錯覚ではないと気付いたとき、3人は再び魔女見習いになったのです。

マジカルステージから急に説明的になって時間なくなった?とか思いましたが、とにかく3人はどれみたちが選択した人間としての魔法を使って生きていくことに決めます。
予想はついていてもやっぱり最後にみんなが出てくると最高ですね。
3人もどれみたちと同じタッチの絵になって混ざる姿を見ると、おジャ魔女どれみというアニメーションを見て育った女性のアニメーションを見ている観客という2重構造になっていることに気付きます。
下手に実写版とか実写2D合成とかをせず、アニメーションの2重構造として作り上げたのはすごい。
200話一気見してよかったです。

オンクラ

ディズニー・オン・クラシック2020を見てきました。
今年は指揮者やボーカリストが来日できないため、全員日本人キャストという、それオンクラの良さ死んでないか?と思ってしまうような編成です。
実際今年は映画全編をやらずにガラコン形式で初演オマージュプログラム。
しかしそこはさすがオンクラだなと思わせる内容。
というか、オンクラだから2020年11月に公演ができているのでしょう。
そのおかげで生のディズニー音楽を聴くことができました。
マンマミーアは観に行ったけれど録音だったし、まあパークのバンドとかはいるけれど、オーケストラの音楽は今年度ではじめてです。

ああやっぱりディズニー音楽は心地良いなとか、結局リトル・マーメイドのメインテーマで泣くとか、最後にオーケストラのディズニー音楽を聴いたのは美女と野獣コンサート(もといメンケン来日コンサート)だったなとか。

途中で琴奏者が出てきて、眠れる森の美女をやるのですが、その前に「さくらさくら」を弾きます。
もうディズニーとは一切関係なくただ琴の音色を聴くのですが、こっちの身体は完全にディズニーモードなんですよね。
そうすると脳がバグって、EPCOT日本館にいる感覚に陥りました。
日本で日本人が日本の楽器で日本の曲を弾いているのに、なぜフロリダにいる気分になるのか。
ディズニー関係で最も日本っぽい場所をEPCOT日本館だと認識している自分にちょっと驚きました。

ピーター・パン2はパリのDisney Dreamsの記憶しかないよなと事前に思っていましたが、聴いてもやっぱりDisney Dreams!
むしろDisney Dreams!のアレンジと異なるところで違和感が出るほど。
しかしストーリーをざっくり見ていると、プー僕とメリポピリターンズで見た構成とかなり似ているんですね。
同時代の英国児童文学に対してディズニーの続編が同じよ展開を生んでいるのは不思議でもあります。
今度ちゃんと見直してみよう。

一応今年のメイン映画っぽいのはライオン・キング。
サークル・オブ・ライフというテーマが今年はずっしり来ます。
動物たちの命の物語を人の手で描いた映画で、それがミュージカルとして新たな価値観を与えられ、より人間も自然の一部だと感じさせる作品になっています。
それを人間が楽器で表現しているということが、久々のオーケストラであることで強く感じられました。
海宝直斗さんにインタビューしたとき、ディズニーミュージカルは共通して「人生は生きるに値する」ことを伝えていると言っていました。
ライオン・キングはまさにそのことを強く訴えてくるような演奏でした。