映画」カテゴリーアーカイブ

ワンダーウーマン1984

アメコミヒーロー映画を観るのも久しぶりで、MCUが止まっている1年半の間に観たのはハーレークインと今回のワンダーウーマンで2本目。
MCUも次はブラックウィドウだし女性ヒーロー単独作品が続きますね。

ワンダーウーマン単独2作目は、1作目からは未来ながらもジャスティスリーグよりはずっと前という時代設定。
過去も未来も決まっているので、自由に彼女の姿を変えることもできない、難しい設定です。
1作目のキャラクターはみんな死んでいるし、バットマンたちはまだいない。
新たなパワーや仲間は作れない(作っても失わないといけない)。
この制約の中でどうするのかと思ったら、1作目の恋人スティーブを復活させます。
DCは原作を全く知らないのでどの展開でも新鮮で楽しい。
ここですごいのが、スティーブ復活の方法。
手段がヴィランとそれと変わらないのです。
手段だけでなく目的も自分のためであってヒーロー仕草ではありません。
ヴィランと変わらない行動を取ることでパワーが弱まるのも良いですね。
ほぼ神のようなスーパーパワーを持っていると強すぎていつパワーを使うのかの問題になりがちで、大抵は新たなパワーをゲットして勝つ流れになりがちです。
1作目はオリジンとして自分の真のパワーを発揮して勝ちました。
しかし今作は未来(ジャスティスリーグとか公開済の作品)が決まっているため、新たなパワーの獲得が困難です。金の羽もすぐ使い終わりました。
新パワー獲得を使わずにクライマックスに持っていく方法として、自分の行動で自分のパワーが弱まるのはうまいです。
ダイアナは普通の人間より良識もあり、マックス・ロードと同じドリームストーンを使っても、彼女だけは正しく使えると思いがちですが、実際は違いました。
露骨に分断社会を意識させる演出の中で、絶対的な正義側などいないことを見せてくれます。
正義は人物に宿っているのではなく、考えと行動に宿るのです。
ホワイトハウスでの戦いから、ダイアナが石の力を捨てる決断、チーターとの戦い、最終決戦と畳みかける展開は見事でした。
様々な戦闘や心揺さぶるシーンを経て、最終決戦が物理的な強さで戦わなかったのが何よりすごい。
映画は元々2020年6月公開予定でしたが、実際公開された時には大統領が代わることが決まっており、世界はそれどころじゃない状態でした。
ただ、この状況だからこそ、一人一人に語りかけ、個々の行動が世界を救うというメッセージがより効果を増していました。
ダイアナがテレビなどディスプレイを通して語りかけることで、スクリーン前の我々にも語っている構図が、製作時の想定以上にはまったと思います。

『魔女見習いをさがして』を観た

『魔女見習いをさがして』を観ました。
僕は主人公3人で一番年上のミレと同い年という、おジャ魔女どれみリアルタイム世代なのですが、ディズニー以外何も触れていなかったので全く観ていませんでした。
ただ、予告編の時点で好きそうな話だなと気になりつつ、そのために4年分の予習をする勇気はない…という状態でした。
ところが先日公開された冒頭6分映像を見て、おジャ魔女何も知らないのに泣きました。
キャラクターも曲もほとんどわからないのに、勝手に観たい物語を重ねて泣きました。
そこにちょうど都合よく我慢の3連休とやらがやってきたので、プライムビデオで一気見しだしたのです。

見たことないのに何が好きそうだったかというと、『魔女見習いをさがして』は20年前におジャ魔女どれみを見ていた子供が大人になり、魔法を信じなくなった現代の話です。
おジャ魔女の世界ではない現実世界を生きながら、子供のころ信じていた魔女見習いはこの世界に確かに存在すると気付く話…というのを勝手に想像して好きそうな話だと思っていました。
僕はなんだかんだ実はミッキーがこの世に実在するんじゃないかと思っていて、そういうことを感じさせる世界観が好きです。
シナモンとプーが住む世界
プー僕やメリポピ2は大人になって魔法を信じなくなった主人公の話でしたが、『魔女見習いをさがして』は大人になって魔法を信じなくなった視聴者の話。
前者はそもそもプーとかメリーの存在を信じていないと主人公と同じ立場になれませんが、後者は誰であろうと主人公と同じ立場になれます。

で、おジャ魔女を見てみると、想像以上に『魔女見習いをさがして』に期待した世界観の土壌がありました。
魔法を扱う作品ってだいたい2通りで、世間が魔法を認識している世界と認識していない世界があります。
おジャ魔女どれみの世界は後者で、その世界は現実世界とリンクさせやすいものです。
特におジャ魔女は普通の人間に魔法の存在を知られること自体が禁忌に近く、何より魔女の物語なのに魔法を使わないで解決することに大きなテーマが置かれています。
特に1期はこれといった敵がおらず、メインストーリーはひたすら検定1級を目指すというのもすごい。
どれみは「世界一不幸な美少女」というキャラクターで登場するけれど、友達が増えるたびにどれみの境遇は不幸じゃないように見えます。
一言で言えば優しくておせっかいなだけ。
しかし、最終話の主人公っぷりが凄かった。
その力こそ魔法で、魔女としての魔法ではなく人間としての魔法を選択した話なんですね。

『魔女見習いをさがして』は、大人になって魔法を信じなくなった3人の話で、おジャ魔女どれみが引き合わせた縁によって友達になる話です。
魔法を信じなくなったとはいえ、神社にお参りはするし、縁は感じるし、それは普通の人も感じるちょっとした魔法みたいなものです。
彼女たちはおジャ魔女の縁だしということで、少し魔法を信じてみます。
その後に言う「友達になれたと思ったのに錯覚だった」という台詞が印象的でした。
住む場所も年齢も違う3人が友達になれたと思った、それを魔法のように感じていたのに錯覚だったと。
おジャ魔女作中での魔法は普通の人間には夢や錯覚のように捉えられていました。
そして、彼女たちはアニメーションとしてその世界を見ていましたが、アニメーションとは静止画が連続することで動いているように見える錯覚です。
静止画が高速に切り替わることで動いているように見えるアニメーションとは、少しずつ動いているけれど遅すぎて止まっているようにしか見えないガラスの対比のようです。
シリーズが完結に向けて静かに動き出すエピソード「どれみと魔女をやめた魔女」では、魔女と人間の時間軸の違いとしてガラスの話が行われ、どれみはガラス玉を眺めます。
おもちゃの魔法玉を持って大人になった3人も、おもちゃの魔法玉を眺めます。
おジャ魔女どれみを観ていた彼女たちは、子供の頃アニメーションという錯覚を超えて魔女見習いになりきっていました。
錯覚を魔法だと分かるのが魔女と魔女見習いの力です。
アニメーションによって繋がった3人が友達になったことが錯覚ではないと気付いたとき、3人は再び魔女見習いになったのです。

マジカルステージから急に説明的になって時間なくなった?とか思いましたが、とにかく3人はどれみたちが選択した人間としての魔法を使って生きていくことに決めます。
予想はついていてもやっぱり最後にみんなが出てくると最高ですね。
3人もどれみたちと同じタッチの絵になって混ざる姿を見ると、おジャ魔女どれみというアニメーションを見て育った女性のアニメーションを見ている観客という2重構造になっていることに気付きます。
下手に実写版とか実写2D合成とかをせず、アニメーションの2重構造として作り上げたのはすごい。
200話一気見してよかったです。

Detroit: Become Humanを見た(やってはいない)

ゲームをまるでやらずに過ごしてきたおかげでゲームがど下手、下手だからやらないの負のループで完全なゲーム弱者としておなじみになっています。
というわけでどうぶつの森で時間を潰すこともない生活を送っていたところ、いろいろあって「Detroit: Become Human」のゲーム実況を見ることになりました。
もちろんゲーム実況を見ることもはじめてです。
ただ一気見癖はあるので、一気に全部見ました。
去年のGWはスター・ウォーズのTVシリーズをクローンウォーズが6シーズン、反乱者たちが4シーズン、計200話ほど一気見したので、それに比べたらゲーム実況19本くらい余裕です。そんなこともあってゲーム実況見ながらクローンウォーズとオーダー66の話がよぎったのですが、その話を書いたら無駄に長くなったので消しました。

タイトルの「Become Human」とはどういうことかというと、アンドロイドが発展した2038年の世界で、アンドロイドと人間の違いとはなんなのか?という物語です。
そこにはキング牧師の公民権運動を思わせる描写が多く、アンドロイドは人間の奴隷なのか否かという議論が架空の未来というより歴史の繰り返しとして語られます。
プレイヤーはアンドロイドを操作するので、自ずとアンドロイド側の心情に寄っていくのですが、それでも終盤に衝撃の事実が明かされたり明かされなかったり(そこまでの選択によって明かされない場合もあるんだと思う)して、人間とアンドロイドの違いとは何かを深く問いかけてきます。

ゲームの宿命的な制約として、好き勝手にどこまでも歩いていくことはできず、発言や行動も選択肢に出たものしかできません。
Detroitでは、ゲームの制約をアンドロイドの制約として利用していることが凄まじいところ。
さらに、それ以上先に進めないときに見える壁が、アンドロイドに自我が芽生えて制約を取り払うときに壁を破壊する描写をすることで、ゲームの制約とアンドロイドの制約が同じであることをはっきり認識させてきます。
ゲームとしての制約があることで、アンドロイドへの没入感がより強まるのです。
選択によって大量の分岐を作り、プレイヤーによってほぼ被ることがないであろうオリジナルのストーリーを生成するのが、Detroitの大きなコンセプトです。
このゲームの特性をアンドロイド活かしていることに大きな衝撃を受けました。
手描きアニメ、CGアニメ、ストップモーション、実写、小説、舞台、など世の中には様々な表現方法があり、それぞれに特性があります。
その媒体特性を活かした表現を行なっている作品に出会うのが好きです。
Detroitは、プレイヤーの選択で物語を描くゲームの媒体特性を完璧に活かしていると思います。
これ以上の設定は考えられないほど完璧です。
ゲームの特性を最大限に活かした設定がアンドロイドである一方、このアンドロイドの物語を描くのに最適な媒体が選択ゲームだと思えてしまい、両面から見てもゲーム形式とストーリー設定が完璧な取り合わせであることに感動してしまいます。

そして、この取り合わせが生む効果を考えていくと、プリンセス論にたどり着くのです。
https://maiyoko.com/2020/03/3665
Detroitは、自分で選択して未来が変わっていく物語ということで、自分にとってのハッピーエンドが何なのかをプレイヤー自らが見つける物語です。
つまり「Find Your Happily Ever After」を自分ごととして体験させるのが、ゲームだからこそできる体験になります。

ゴールがゲーム側から指定されていれば、途中の選択でもゴールへのルートを考えて合理的な選択をしていけます。
しかし、このゲームは選択と分岐が膨大すぎて、これストーリーに関係なくね?という選択も迫られますし、実際どれを選んでも同じストーリーが進む選択もあります。
そんな中で、プレイヤーは徐々に選択の軸、つまりゲーム内での自分の信念を元に選択を行うようになっていきます。
さらに、ストーリーが進むにつれて、ゴールすら自分の信念により決めるものだということがわかってきます。
すると、ゴールの設定も自分の信念だし、その途中にある道のりも自分の信念ということになり、途中の選択で何を選ぶべきかの悩みが大きくなっていきます。
例えば、なるべく争いたくないと思う人がゴールを平和的解決と捉えたとして、ゴールに最もたどり着きそうな選択肢が目の前の人を殺すだった場合、殺すを選択して自分の理想のゴールにたどり着いても、それは本当にハッピーエンドと言えるのかということです。
これって「プリンセスのパラドックス」のような現象で、自分はどういうヒーローになりたいのか、自分の物語を描く上で非常に大きな問題です。
(「プリンセスのパラドックス」とは「悪魔バスター★スター・バタフライ」で起きるプリンセスらしい行動を取るとプリンセスという立場を失うという状況)
だからこそ、重要人物を撃つか撃たないかのような選択よりも、目の前のモブを不幸にすればゴールが見えるという選択の方が難しく感じてしまいます。

そしてさらにすごいのが、プレイヤーが操作するキャラクターが3人いて、それぞれ別の物語が徐々に交差して大きな事件になっていくのですが、その交差の仕方も選択によって変わってくること。
各キャラクターに選択の軸を持たせて物語を進めていきますが、その軸同士が影響し合い、誰かの選択の軸を守るためには他の人の選択の軸を変えなければならない状況が発生します(選び方によってはしないんだろうけれど)。
1人のハッピーエンドを守るためには他の2人のハッピーエンドを犠牲にする決断が必要になるかもしれないし、当初思っていたハッピーエンドが他の2人に影響されることで実はハッピーエンドではないことに気付くかもしれません。
これを他人(コンピュータ)から影響されるのではなく、別人格を操る自分に影響されていくのが、ゲームならではの感情移入の仕方をもたらしていると思います。

アンドロイドが壁を突き破るゲームとしてのメタ表現、人を撃つか撃たないかよりも拾ったものを返すか返さないかの判断の方が心に重くのしかかる感情の持っていき方、この2点は中でも衝撃的でした。
様々な表現媒体がある中で、ゲームという媒体を全然知らないことにずっと引っ掛かりを感じていましたが、その中で1本見た作品がこれほどの衝撃を与えるものであったことを幸せに感じます。
一切自力でプレイしていないけれど。自分でやったら秒で死ぬ。

アーネストとセレスティーヌ

僕は芸術に疎い。
音楽もやらないし、絵も描けない。
頭が良くなりたいとかの願望はあっても芸術は無理だと思う節があるため、音楽や絵が上手い人はただただ尊敬している。
アーネストとセレスティーヌは出会ってはいけない間柄ながら、お互いの芸術性を尊敬し合い、心を通わせていく。
その過程が観ていてとても心地良かった。

『くまのアーネストおじさんとセレスティーヌ』が8月22日から順次劇場公開される。
くまのアーネストおじさんとセレスティーヌ
僕はこの作品を東京アニメーションアワードフェスティバル2014で観た。
フランス映画でアカデミー長編アニメーション賞ノミネート。
ノミネート発表の時のポスターでこれは好きそうだと思い、予告編で確信を持っていた。

熊が人間のように暮らしている世界。
鼠は熊を恐れながら、地中に都市を作って生活していた。
熊のアーネストは一人演奏の大道芸をしていたが貧乏生活を送っていた。
鼠の少女セレスティーヌは、怖さが分からない。熊の恐ろしさを語られてもピンとこなかった。
ある日、アーネストとセレスティーヌは出会う。セレスティーヌの怖いもの知らずな態度のおかげで、アーネストはセレスティーヌを食べずに済む。
しかし、この世界において熊と鼠の出会いは決して許されない。
アーネストとセレスティーヌはお互い逃亡生活を送ることになり…
地上に住む熊と地下に住む鼠。
隔離された2つの世界の交流という、よくあるテーマを落ち着いたアニメーションで描いていく作品だ。

ディズニーのような美しさ、ピクサーのような緻密さはない。
しかし、いつまでも観ていたい心地良さがそこにある。
僕が観たのは2014年春、ちょうどアナ雪フィーバーの頃だった。
曲も映像も圧が強く、カルト的な面も持ったアニメーションが世界を席巻する中で、重さを感じない作品だった。

書き込み過ぎない絵と音楽、それを補うように語られる2人の芸術性。
アーネストとセレスティーヌの友情ができていくにつれて、アニメーション映画としても完成されていく。
映画という枠組みとその中にいるキャラクターが相互補完的にひとつの作品を作っていくようだった。
DVDなら家でいつまでもぼーっと観ていられる心地良い作品だ。
しかし、他の要素を入れず作品を観ることだけしかできない劇場環境で体験するこの心地良さは、なんとも贅沢なひとときだった。