「Syn:身体感覚の新たな地平」を観た

虎ノ門ヒルズのTOKYO NODE開館記念作品「Syn:身体感覚の新たな地平」を観ました。

美術展などを開催することを想定した箱だと思うのですが、開館記念でダンスパフォーマンスを講演しています。
中に入ると、3つのゾーンに分かれていて、各部屋でパフォーマンスを見て、グループ単位で次の部屋へと移動していく形です。

すごかったのが、2つめの部屋の演出。
体験時間としても、この部屋が突出して長く、メインになっています。
プロジェクションマッピングに出会った時以来、映像技術として10年ぶりの衝撃かもしれません。

この部屋に入る際、3Dグラスを渡されます。
部屋に入ると、近くにロープが置かれており、ロープが鑑賞エリアのラインになっています。
真っ白な部屋の目の前には、大きな壁が。
壁には左右に少し隙間があり、部屋が奥まで縦長に続いていることがわかります。
そして壁に丸い物体が投影され、ドクドクと波打っています。
浮いている球は3Dの定番で、距離感が掴みにくく立体視しやすいものですが、今回は壁に仕掛けがあります。
壁自体が可動式で、物理的に後ろに下がり、連動してプロジェクターも後ろに下がるため、壁へのプロジェクションもそのまま下がっていきます。
元々距離が掴みにくかった3D物体との距離がさらに開いていくため、距離がどんどん掴めなくなっていくのです。
プロジェクションマッピングと3Dとの相性の良さを思い知らされます。

そしてダンサーが登場し、プロジェクションとダンスの融合が見られます。
壁が可動式のため、鑑賞空間も拡大縮小をとげ、ついには目の前のロープも動かされ、客側の鑑賞エリアも変わっていきます。
3Dグラスをかけて投影物を立体視しながら歩いていくことで、既に距離感が掴めなくなっているのにもっと距離がわからなくなります。

そして最大の衝撃が、ダンサーに向かって当てられるライトです。
ロープを動かして鑑賞エリア移動を誘導している係の人が、懐中電灯を持っており、それをダンサーに当てるのですが、その懐中電灯が2つ繋がった形になっています。

双眼鏡のように、ライトとライトが隣り合わせになっている形です。
これが偏光ライトで、右目で見えるライトと左目で見えるライトが連なっているのです。
偏光ライトがダンサーに当たることで、右目で見える影と左目で見える影が発生します。
すると、影が立体視されるのです。

5分で作った原理っぽい雰囲気の絵

本当は偏光による立体視のはずですが、わかりやすそうなので赤青メガネで説明します。
赤いライトと青いライトが繋がっていて、そこから人物に光を当てると、それぞれの色の影ができます。

これをメガネを通して見ると、青メガネからは青い影は見えず赤い影だけが見え、赤メガネからは青い影だけが見えます。
左右で違う影が見えるため、影が立体視されるのです。


メガネを外して見ると、影は2つあり、3D映像を裸眼で見たときと同様のブレた映像のように見えます。

壁の上に影が浮いているような状態に見えます。
人の影が立体視される初めての体験。
初めは何が起きているのか理解できませんでした。
前後に人が立っていると、前の人の影が後ろの人の体に映るわけですが、その影が立体視されているので、体に影が映っているというより体の上に影が載っているような感覚に陥ります。
影の視覚情報が混乱し、奥行き感がぶっ壊されました。
さらに、客側にもライトが当てられ、自分たちの影すらも立体視されていくのです。
自分が動くことで3D映像が生成されていくような感覚です。

3D自体が錯視ですが、錯視映像を見ることで現実の視覚が狂っていく、まさに身体感覚と向き合わされる体験でした。

これまでの3D映像は、最初に球体の映像を見ていたように、実際に存在する3次元物を映しています。
2次元の平面映像を用いながら、本物の3次元物体に見えるよう再現しているのです。
それに対して影は、元々が2次元の存在です。
本来2次元のものを立体視するという、まさに次元を超えた世界。
これまでの3Dの見方と全く別のものになります。
ほぼ常時目にしている影という2次元の存在が、初めて立体的に見えてくるのは「身体感覚の新たな地平」の名にふさわしい体験でした。

ミュージカル「ミーン・ガールズ」を観た

ミュージカル「ミーン・ガールズ」を観ました。ブリリアホールに行くのが初めてだったので、これ設計したやつ誰だよ感情はやっぱり芽生えましたが、それは置いておいて。
主人公は、アメリカに住む女の子。16歳でアメリカの高校に転校します。そこでスクールカーストの中に巻き込まれていくという、アメリカの学園者としてはよくある流れです。この作品が面白いのは、アフリカから来たという要素がただの文化の違う田舎という記号になっていないこと。アフリカでライオンや象たちの食物連鎖の世界を見てきた彼女がその視点でスクールカーストに向かっていくという構造が面白かったです。
音楽にもアフリカンミュージックが所々取り入れられていて、ミュージカル楽曲と融合する様子も、ストーリーと合っていました。ライオンキングやアニマルキングダムで聞いていた、アフリカ音楽っぽさの知識が役立ちました。
ストーリーは、基本的に彼女の周りで起きてきたことだけで進行し、一方その頃〜のようなサブストーリーはほとんど発生しません。その分主演が出ずっぱりで大変そうでした。
個人的に幕までセットが大きく変わる舞台が好きなのですが、この規模のセットで起きることはまずありません。そんな中、セットを変えるのではなく(ネタバレ避けでぼかしますが)そこを変えたかとなり、好きでした。
プロットが寄り道しないので、物語はかなりテンポよく進みます。序盤でこんな話になるかなと予想した展開は早々にそんな感じの場面を迎えてしまい、じゃあこれから何を描いていくのかというワクワク感もありました。ギャグなど笑えるシーンが多々あるのでそんな感覚はありませんでしたが、振り返ってみると結構詰め込んだ話になっているように思います。序盤で伏線ぽいたけれど尺的に回収できなさそうだなと思った部分までしっかり回収されていて、無駄のなさを感じます。
スピーディーに話がスイングしていく中でも一貫して描かれているのは、自分の素の姿で自分らしく生きていこうという強いメッセージです。ガールズパワーだけでなく、様々な属性のを持つ人をも巻き込んで自分らしく、生きることを表現していく姿は、非常に近年の作品らしさを感じました。
ピンクで着飾り学校で生き抜いていくパワフルなで、ハッピーなミュージカルは「キューティ・ブロンド」を思わせます。ミーン・ガールズで検索しても関連にキューティ・ブロンド出てくるし。「キューティー・ブロンド」は2019年に観て、本当に大好きな作品でしたが、もうあの姿ので観ることは二度とできなくなってしまいました。どうしてもそのことが心にもたれかかってきていう気がしていて。この1年、あまりミュージカルを見ていなかったように思います。今回、雰囲気から似た作品を観られたからこそ、それでもこの世は生きるに値するという強いメッセージを受け取れたように思います。救われた気がします。
主演の生田絵梨花さんは、一昨年、帝劇のレミゼで観たことがありましたが、ブリリアでも聞きやすく、そして何よりこんなに男性比率の高い客席は初めて見ました。

屋内シアターにランウェイを作った「エッグンロール・イースター Blast」

サンリオピューロランドのピューロイースターは、2021年から、これまで知恵の木で行われていたショーをエンターテイメントホールのステージに移して公演しています。
ステージ版2年目のエッグンロール・イースター Blastでは、ランウェイが登場しました。
ランウェイを見ると全てクラブディズニーに見えてきますが、屋内のキャラクターショーでランウェイがあるのは初めて見たと思います。本来のランウェイって基本屋内だけれど、テーマパークだとみんな屋外でやってきたんですね。そもそも屋外ランウェイも東京ディズニーランドとシーとハーモニーランドの3つしか思い浮かばないけれど。
というわけで、エッグンロール・イースター Blastかなり実験的でチャレンジングなショーだったと思います。実験の記録として思い浮かんだことをまとめもせず書いていきますが、もし批判っぽくなってもそれは批判ではなく実験の過程であり、コロナからの過渡期にこのシステムを試していること自体を評価しています。

ランウェイの利点は、客席に飛び出しているので、キャラクターが近くまで来てくれることにあります。また、ランウェイ部分はどうしても道幅が狭くなるため、キャラクターは端に近い場所に立つことになります。ステージでここまで端に近い場所に立ったら不自然でしょうから、ステージ最前のゲストよりもランウェイ横のゲストの方がキャラクターとの距離が近くなります。これはキャラクターとゲストが触れ合えず客降りができないコロナ禍、キャラクターとの物理的な距離だけで気持ちが上がる状況下において大きな利点です。
一方、単純にランウェイの分、キャパが減ります。これがキャパ制限のあるコロナ禍と相性が悪い。痛し痒しです。
また、ランウェイが中央にあるため、ステージ中央いわゆるドセンの鑑賞人数が減ります。ステージ上で決めるシーンになると、ステージ上の中央にいるキティを正面から見ようとすると、ランウェイのはるか先にいることになります。
ランウェイの長さの倍以上は鑑賞スペースの奥行きがないと厳しいのかなと思いました。
そして、鑑賞エリアが減る分、ステージ部分の面積が増えます。コロナ禍で出演者数が制限されている中、スカスカ感が際立ってしまうのも難点です。今回は、昨年のエッグンロール・イースターに比べて、マイメロディとクロミを増やすことで対応していました。2021年では無理で2022年だからできたランウェイだったとも言えます。
それでもランウェイにキャラクターを寄せるとステージに誰もいなくなるといったシーンが発生してしまいます。うまく出演者を配置すれば、ステージ最前、ランウェイ横と、表面積が増えるので鑑賞しやすい場所が増えると受け取ることもできますが、構成をうまく作らないと「ミッキーのジョリースノータイム」のようにどの場所も全部見ずらいという元も子もない状態になります。
屋内ショーでランウェイを導入する初のショーにしては、うまい構成が作れていたと思います。キティとダニエルが会うシーンは、ステージとランウェイに2人を配置することで、2人の距離も出せるし、鑑賞場所によって2人を同時に見たり、2人に挟まれて見たり、いろいろな表情が見られるシーンになっていました。昨年からあるシーンですし、知恵の木周りでもキティとダニエルが探し回って出会うなんて何度も何度もやっている中で、新たなランウェイをしっかり活用できているのはさすがです。
一方、撮影シーンではカーテンコール的にキャラクターが順番にランウェイの先にやってくるものの、両隣にダンサーを配置するため、せっかくの撮影タイムなのにダンサーがキャラクターの前に被るという状態でした。真後ろ以外270°くらい周りのゲストが見えるのがランウェイなんだから、撮影対象は1人ずつにしないと誰も幸せになれないだろうに。


撮影OKのダンスシーン。この位置でも横並びで撮れるのはランウェイの利点。
基本撮影禁止で最後に撮影タイム設ける方式に慣れてきて、クロミがカメラを忘れたというストーリーまで織り込めるようになっていた。

マイメロとクロミが加わったことでキャラクターが4人になり、キャラクター目線での構成上の空白感は薄まりましたが、シーンの配置に無理矢理感が否めません。イースタープロムを決めるという設定ながら、キティの歌唱シーンしかなく、キティがプロムに選ばれるというそりゃキティ以外選ばれないだろ展開は今年も変わらず。
なぜかプロムが選ばれた後に、今年の新曲であるクロミとマイメロの歌が入ります。普通に考えたらキティの歌の後、プロムを選ぶ前に配置するはず。さらにこの曲で参加ダンスが行われ、次のシーンでも元々あった参加ダンスコーナーがあるため、参加ダンスが連続します。しかもクロミとマイメロの歌の間、キティとダニエルがはけているのですが、ただいないならまだしも映像で登場。コロナ休園明けの「Go for it!」でのスクリーン上のテレビ電話での参加演出は良かったのですが、2年間も何度も何度も擦り続けるような演出ではないでしょう。何よりさっきまでステージ上にいたキャラクターが電話で参加し直す意味がよくわかりません。コロナで出演者数が減る状況を逆手に取った演出が、キャラクターを出さずにやった感を醸し出せる演出に成り下がっています。タイミングも演出もキティを休ませたいんだなという、ストーリーとは関係ないご都合主義が透けて見えます。
参加ダンスも、クロミのダンスが難しいのは良いと思うのですが、事前レクチャーなしで難しいダンスは踊れる人と踊れない人が極端に分かれます。要は通っている人は完璧に踊れるし、一見では全く踊れない。しかもこのショーは撮影禁止。撮影可なら通っている人もカメラを構えてダンスに参加しない人が多いですが、通っている人がみんなダンスに参加するので、そこそこの割合が難しい踊りを完璧にできる、一見では付いていけない状態になります。
まあ数年単位で通っている人だけが踊り残りは手拍子を促され無意味に疎外感だけ与える某シーのシャイニング・ウィズ・ユーと比べたら大した問題ではありません。

屋内でのランウェイショーはコロナ禍でのメリットを感じましたが、構造的に解決できるのか難しいデメリットも感じました。ピューロなら今後もっと上手く活用したショーに進化させられるのではと思いますが、もうエンターテイメントホールでのイベントショーはやめるみたいですし、コロナから通常に戻る過渡期に生まれたレアケースとして忘れられていくのかな、だとしたらもったいない事例だなと感じています。
全編撮影日もありましたが、全編ネットにあげるのは禁止だし、誰か何かうまいこと記録として残してくれればいいなと急な投げやりで終わります。

VIVA LA VALENTINE

サンリオピューロランド初のオンライン演劇『VIVA LA VALENTINE』。
オンライン演劇という新たなスタイルに挑戦した作品です。
ピューロでは既にショーの生配信や配信限定イベントは行われていて、ではオンライン演劇とは何か?が問題になります。
しかも生演劇にするにしても、どうしてもキャラクターボイスは収録になるわけで、生感はどうしても薄れます。
つまり収録の映画と何が違うのか?と思うわけです。
そこで、ビバラバは脚本にメタ要素を入れることで答えを出しています。
つまり「ダニエルが演出を務めるショー『VIVA LA VALENTINE』がオンラインで生配信される世界」を描いた演劇ということです。
以降わかりやすくするため、実際に配信されたものを演劇、劇中劇をショーと呼びます。
ショーはフェアリーランドシアターで公演されますが、演劇はステージの外に飛び出して行われます。
キティたちキャラクターがオフの状態でも一スタッフとして過ごしている世界。
つまりオンステージとバックステージ(概念)を行き来しています。
それをワンカットで紡ぐことによって、メタ構造の演劇化に成功していました。

ピューロは休園時からコロナのある世界としてゲストに寄り添い続けてくれていました。
それはショーの最後でもキティからの「今は会えないけれど」というメッセージとして伝えられています。
キティはこの1年弱、とにかくこのメッセージを発し続け、ピューロに行けないゲストにも寄り添って希望を届け続けてきました。
これはピューロを現地で観ていても明らかで、ショーが徐々に再開されてきた今でも、ダンサーは全員マウスシールドをつけていて、出演者同士もソーシャルディスタンスを保つことは『Hello, New World』の演出に使われるほど当然のことになっています。
キャラクターはこの世界に寄り添うべきなのか

そんな中で演劇中では、誰もマスクをつけず、至近距離で話しています。
キティがコロナを意識したメッセージを発しているメタ物語であるにも関わらずです。
ピューロのショーがどれだけコロナ世界に寄り添ってソーシャルディスタンスを保っていても、それはうわべだけで、バックステージではマスクも密も気にせず過ごしているということなんでしょう。
これまで半年かけて築いてきたピューロのコロナ禍への寄り添い方が台無しです。

メタ視点を持った演劇だからこそピューロへの信頼を毀損しているのは、冒頭からでした。
最終的にどうなるにせよ、ダニエルが演出家のショーはスポンサー意向で変更されました。
それでゲネプロまで通しているわけです。
ピューロはお金次第でキャラクターの思いを捻じ曲げることを厭わない場所なんですね。
スポンサーロゴをもっと大きく中央にという要望は、明らかにゲストの体験価値を損なう内容ですが、それを受け入れようとしている時点で、最後にゲスト第一とか言ったところで説得力はありません。
キティはYouTubeの初回で「仕事を選ばないと言われるけれど、選んだ結果がこれだ」と言っていました。
今回全く選んでないよね。
キティこそ大人の事情に影響されてるよね。
ゲネプロまで行ったなら突然本番だけ内容変えるのはプロのエンターテイナーではないし、シナモンやクロミがそれほどエンターテインメントをおそろかにしているとは思えません。
プリンも自分は変更なかったからとゲネプロに顔を出さず暇しているような意識ではないと思います。
そもそもバレンタインのショーでただキャラクターが自分の好きな曲を踊るだけで最後に突然ダニエルがキティにバレンタインを渡す10分のショーって内容酷すぎるでしょう。
スポンサー意向後もプリンだけそのままってどういう展開だったんだよ。

演劇のメッセージとなるのは、素直さとジェンダーロールで、ジェンダーロールはちょうど話題になったタイミングで神がかった視点だとは思いますが、ピューロの解決の仕方としてこれはおかしいと思います。
スタッフ側の配役こそジェンダーロールそのままだと思いますし、素直さもそれはわがままでは?と思います。
キティの素直さって、うわべの気持ちではなく相手の心まで考えた素直さだと思います。
相手が悪役であっても、相手の本当の気持ちを見つけ出そうとするのがキティなのではないでしょうか。
ミラクルギフトパレードやKAWAII KABUKIで相手の良い面を見出そうとしていた姿はどこに行ったのか。
スポンサーが心の底からバレンタインは女が男にチョコをあげるだけの日だと思っているのか確かめることもしませんでした。
本番中にシアターのすぐ横で大声で話す時点でスポンサーであれショーを届ける者として論外であり、それを普通に描いている時点で本気で演劇を志している人が作っているのか些か疑問ですが、それでも悪役を切り捨てるキティはありえないでしょう。
私が正しい、お前は黙ってショーから私の正義を学べ、という姿勢はキティがとってきた姿勢ではないですよね。
結局スポンサーを切って勝手にショーをやっただけで、大人の世界で見ればバイアス製菓は被害者なだけで何も改善されません。

この演劇自体が「初のオンライン演劇をやりたい」という大人の事情で生まれただけで、とりあえず新しいこと、キャッチーなテーマ、それっぽい展開を入れておけば良いだろうという姿勢に見えました。

ナウシカ歌舞伎

ナウシカ歌舞伎がお正月にBSで放送されていたので、ようやく録画を見ました。

昼夜公演で6時間以上かけて「風の谷のナウシカ」漫画版の全編を歌舞伎化した作品です。
漫画読むのが苦手なので、ナウシカはアニメーション版しか観たことがなく、漫画版はwikipediaレベルの知識しかありません。
歌舞伎は鑑賞教室を何度か観た程度。
KAWAII KABUKIの鑑賞回数の方がずっと多いです。
というわけで、原作も表現方法もいまいち知らない状態だったのですが、話は分かるし面白かったです。
新作歌舞伎は初めてでしたが、口語が聞き取りやすいのが大きいのかな。
収録映像で歌舞伎観るのも初めて。

アニメーション版には登場しない土鬼がテレパシーを用いるため表現がなかなか難しくなりますが、精神世界を表現する上で歌舞伎との相性が良かったのかなと思いました。
戦闘が重要だけれどそこだけが目立つわけにもいかないし、ナウシカ自身が戦う場面も少ないという、歌舞伎でなければ表現が難しかった気がします。
歌舞伎は型が色々あって、既存の物語のこのシーンはこの型に当てはまりそうだなとか思いながら作り上げていったのでしょうか。
型が身に付いている状態で映画や漫画を見ていると、これは歌舞伎で面白そうとか勝手に考えたりするのでしょう。
そんな生活もすごく面白そう。
そう思えるほど、ナウシカのそれぞれのシーンに歌舞伎の表現がマッチしていました。

そして後編オープニングのナウシカの登場がべらぼうにかっこよかったです。

ワンダーウーマン1984

アメコミヒーロー映画を観るのも久しぶりで、MCUが止まっている1年半の間に観たのはハーレークインと今回のワンダーウーマンで2本目。
MCUも次はブラックウィドウだし女性ヒーロー単独作品が続きますね。

ワンダーウーマン単独2作目は、1作目からは未来ながらもジャスティスリーグよりはずっと前という時代設定。
過去も未来も決まっているので、自由に彼女の姿を変えることもできない、難しい設定です。
1作目のキャラクターはみんな死んでいるし、バットマンたちはまだいない。
新たなパワーや仲間は作れない(作っても失わないといけない)。
この制約の中でどうするのかと思ったら、1作目の恋人スティーブを復活させます。
DCは原作を全く知らないのでどの展開でも新鮮で楽しい。
ここですごいのが、スティーブ復活の方法。
手段がヴィランとそれと変わらないのです。
手段だけでなく目的も自分のためであってヒーロー仕草ではありません。
ヴィランと変わらない行動を取ることでパワーが弱まるのも良いですね。
ほぼ神のようなスーパーパワーを持っていると強すぎていつパワーを使うのかの問題になりがちで、大抵は新たなパワーをゲットして勝つ流れになりがちです。
1作目はオリジンとして自分の真のパワーを発揮して勝ちました。
しかし今作は未来(ジャスティスリーグとか公開済の作品)が決まっているため、新たなパワーの獲得が困難です。金の羽もすぐ使い終わりました。
新パワー獲得を使わずにクライマックスに持っていく方法として、自分の行動で自分のパワーが弱まるのはうまいです。
ダイアナは普通の人間より良識もあり、マックス・ロードと同じドリームストーンを使っても、彼女だけは正しく使えると思いがちですが、実際は違いました。
露骨に分断社会を意識させる演出の中で、絶対的な正義側などいないことを見せてくれます。
正義は人物に宿っているのではなく、考えと行動に宿るのです。
ホワイトハウスでの戦いから、ダイアナが石の力を捨てる決断、チーターとの戦い、最終決戦と畳みかける展開は見事でした。
様々な戦闘や心揺さぶるシーンを経て、最終決戦が物理的な強さで戦わなかったのが何よりすごい。
映画は元々2020年6月公開予定でしたが、実際公開された時には大統領が代わることが決まっており、世界はそれどころじゃない状態でした。
ただ、この状況だからこそ、一人一人に語りかけ、個々の行動が世界を救うというメッセージがより効果を増していました。
ダイアナがテレビなどディスプレイを通して語りかけることで、スクリーン前の我々にも語っている構図が、製作時の想定以上にはまったと思います。

音楽の危機《第九》が歌えなくなった日

「音楽の危機 《第九》が歌えなくなった日」(岡田暁生著・中央公論新社)を読みました。
2020年9月に出版された本で、イベント開催自粛要請でコンサートが軒並み中止になっているその時に書かれたもの。
その後の第2波・第3波までの間に少し再開したことすら、この本からすると、未来の話です。
危機の真っ只中、後付けの言い訳をできない中で、音楽史を見ながら現状と未来について語られています。

パチンコと美術館に同時に休業要請が出され、それどころか冠婚葬祭や拝観まで不要不急となった世界。
これまで文化は「聖と俗」と区切られていたはずが、全て一括りに不要不急になりました。
それは、文化とは全て「聖」の領域にルーツを持つ同じものであることを明らかにしました。
同じルーツを持つものが、社会の変容と共に区別されていったのです。
本著では音楽の観点から社会の変容と文化の変容を見ていきます。
著者は音楽の中でもメディア音楽すなわち「録楽」とライブ音楽を明確に区別しますが、それもまた社会の変容と共に区別されていったものです。
そしてライブ音楽が「空気」、「聞こえない音を聴くということ」を必要とすること、つまり文化が本質的に「密」が前提に成り立っていることを確認していきます。
ライブ音楽の代表格クラシックコンサートの中でも代表格となっている「第九」は、最終章では合唱まで加わり「さあ抱き合え!」と繰り返されます。
その感覚は「第九」のものであり、批判されながらも、当時の感覚を反映しており、音楽史の重要な一点です。
そして社会の変容と共にクラシック音楽のスタイルも変容を遂げたこと、また実験的な試みをみせようとしてきたこと、それぞれの観点で音楽史を紹介していきます。
クラシック音楽は、楽譜や指揮者が全てを司り、その決まりきったスケジュール性は工場の労働メニューのようです。
一方、ジャズという即興音楽はそれがなく、すごいジャズミュージシャンは、音楽をエンディングまで持っていける人だといいます。
この感覚は『ソウルフル・ワールド』を観た後で分かりやすく捉えることができました。

著者は様々な観点から音楽が反映する社会情勢を見て、それぞれの章でポストコロナ時代の音楽スタイルを探ります。
改めて「距離」と向き合うことになった時代、音楽と「距離」の関係性を見直すことで、新たな音楽スタイルが生まれていくのかもしれません。
社会が変容したのだから新たな音楽スタイルが生まれることは、その観点で音楽史を見てきた流れでは自明のようですが、そこには脅迫性も感じます。
社会が変容しても「第九」は歌われて続けているわけで、古典は古典として生き続けます。
新たな形も模索しつつ、「第九」は元のスタイルが再開できる日まで耐え忍ぶことになるのでしょう。
それでも新たなスタイルを求め続けるのは、全てが元に戻るだけでは、音楽が不要不急なものだったことを認めてしまうことを恐れているからのようです。
音楽が不要不急なものだったことを認めてしまうことこそ、何より「音楽の危機」なのでしょう。

『魔女見習いをさがして』を観た

『魔女見習いをさがして』を観ました。
僕は主人公3人で一番年上のミレと同い年という、おジャ魔女どれみリアルタイム世代なのですが、ディズニー以外何も触れていなかったので全く観ていませんでした。
ただ、予告編の時点で好きそうな話だなと気になりつつ、そのために4年分の予習をする勇気はない…という状態でした。
ところが先日公開された冒頭6分映像を見て、おジャ魔女何も知らないのに泣きました。
キャラクターも曲もほとんどわからないのに、勝手に観たい物語を重ねて泣きました。
そこにちょうど都合よく我慢の3連休とやらがやってきたので、プライムビデオで一気見しだしたのです。

見たことないのに何が好きそうだったかというと、『魔女見習いをさがして』は20年前におジャ魔女どれみを見ていた子供が大人になり、魔法を信じなくなった現代の話です。
おジャ魔女の世界ではない現実世界を生きながら、子供のころ信じていた魔女見習いはこの世界に確かに存在すると気付く話…というのを勝手に想像して好きそうな話だと思っていました。
僕はなんだかんだ実はミッキーがこの世に実在するんじゃないかと思っていて、そういうことを感じさせる世界観が好きです。
シナモンとプーが住む世界
プー僕やメリポピ2は大人になって魔法を信じなくなった主人公の話でしたが、『魔女見習いをさがして』は大人になって魔法を信じなくなった視聴者の話。
前者はそもそもプーとかメリーの存在を信じていないと主人公と同じ立場になれませんが、後者は誰であろうと主人公と同じ立場になれます。

で、おジャ魔女を見てみると、想像以上に『魔女見習いをさがして』に期待した世界観の土壌がありました。
魔法を扱う作品ってだいたい2通りで、世間が魔法を認識している世界と認識していない世界があります。
おジャ魔女どれみの世界は後者で、その世界は現実世界とリンクさせやすいものです。
特におジャ魔女は普通の人間に魔法の存在を知られること自体が禁忌に近く、何より魔女の物語なのに魔法を使わないで解決することに大きなテーマが置かれています。
特に1期はこれといった敵がおらず、メインストーリーはひたすら検定1級を目指すというのもすごい。
どれみは「世界一不幸な美少女」というキャラクターで登場するけれど、友達が増えるたびにどれみの境遇は不幸じゃないように見えます。
一言で言えば優しくておせっかいなだけ。
しかし、最終話の主人公っぷりが凄かった。
その力こそ魔法で、魔女としての魔法ではなく人間としての魔法を選択した話なんですね。

『魔女見習いをさがして』は、大人になって魔法を信じなくなった3人の話で、おジャ魔女どれみが引き合わせた縁によって友達になる話です。
魔法を信じなくなったとはいえ、神社にお参りはするし、縁は感じるし、それは普通の人も感じるちょっとした魔法みたいなものです。
彼女たちはおジャ魔女の縁だしということで、少し魔法を信じてみます。
その後に言う「友達になれたと思ったのに錯覚だった」という台詞が印象的でした。
住む場所も年齢も違う3人が友達になれたと思った、それを魔法のように感じていたのに錯覚だったと。
おジャ魔女作中での魔法は普通の人間には夢や錯覚のように捉えられていました。
そして、彼女たちはアニメーションとしてその世界を見ていましたが、アニメーションとは静止画が連続することで動いているように見える錯覚です。
静止画が高速に切り替わることで動いているように見えるアニメーションとは、少しずつ動いているけれど遅すぎて止まっているようにしか見えないガラスの対比のようです。
シリーズが完結に向けて静かに動き出すエピソード「どれみと魔女をやめた魔女」では、魔女と人間の時間軸の違いとしてガラスの話が行われ、どれみはガラス玉を眺めます。
おもちゃの魔法玉を持って大人になった3人も、おもちゃの魔法玉を眺めます。
おジャ魔女どれみを観ていた彼女たちは、子供の頃アニメーションという錯覚を超えて魔女見習いになりきっていました。
錯覚を魔法だと分かるのが魔女と魔女見習いの力です。
アニメーションによって繋がった3人が友達になったことが錯覚ではないと気付いたとき、3人は再び魔女見習いになったのです。

マジカルステージから急に説明的になって時間なくなった?とか思いましたが、とにかく3人はどれみたちが選択した人間としての魔法を使って生きていくことに決めます。
予想はついていてもやっぱり最後にみんなが出てくると最高ですね。
3人もどれみたちと同じタッチの絵になって混ざる姿を見ると、おジャ魔女どれみというアニメーションを見て育った女性のアニメーションを見ている観客という2重構造になっていることに気付きます。
下手に実写版とか実写2D合成とかをせず、アニメーションの2重構造として作り上げたのはすごい。
200話一気見してよかったです。

オンクラ

ディズニー・オン・クラシック2020を見てきました。
今年は指揮者やボーカリストが来日できないため、全員日本人キャストという、それオンクラの良さ死んでないか?と思ってしまうような編成です。
実際今年は映画全編をやらずにガラコン形式で初演オマージュプログラム。
しかしそこはさすがオンクラだなと思わせる内容。
というか、オンクラだから2020年11月に公演ができているのでしょう。
そのおかげで生のディズニー音楽を聴くことができました。
マンマミーアは観に行ったけれど録音だったし、まあパークのバンドとかはいるけれど、オーケストラの音楽は今年度ではじめてです。

ああやっぱりディズニー音楽は心地良いなとか、結局リトル・マーメイドのメインテーマで泣くとか、最後にオーケストラのディズニー音楽を聴いたのは美女と野獣コンサート(もといメンケン来日コンサート)だったなとか。

途中で琴奏者が出てきて、眠れる森の美女をやるのですが、その前に「さくらさくら」を弾きます。
もうディズニーとは一切関係なくただ琴の音色を聴くのですが、こっちの身体は完全にディズニーモードなんですよね。
そうすると脳がバグって、EPCOT日本館にいる感覚に陥りました。
日本で日本人が日本の楽器で日本の曲を弾いているのに、なぜフロリダにいる気分になるのか。
ディズニー関係で最も日本っぽい場所をEPCOT日本館だと認識している自分にちょっと驚きました。

ピーター・パン2はパリのDisney Dreamsの記憶しかないよなと事前に思っていましたが、聴いてもやっぱりDisney Dreams!
むしろDisney Dreams!のアレンジと異なるところで違和感が出るほど。
しかしストーリーをざっくり見ていると、プー僕とメリポピリターンズで見た構成とかなり似ているんですね。
同時代の英国児童文学に対してディズニーの続編が同じよ展開を生んでいるのは不思議でもあります。
今度ちゃんと見直してみよう。

一応今年のメイン映画っぽいのはライオン・キング。
サークル・オブ・ライフというテーマが今年はずっしり来ます。
動物たちの命の物語を人の手で描いた映画で、それがミュージカルとして新たな価値観を与えられ、より人間も自然の一部だと感じさせる作品になっています。
それを人間が楽器で表現しているということが、久々のオーケストラであることで強く感じられました。
海宝直斗さんにインタビューしたとき、ディズニーミュージカルは共通して「人生は生きるに値する」ことを伝えていると言っていました。
ライオン・キングはまさにそのことを強く訴えてくるような演奏でした。

「マンマ・ミーア!」を観た

劇団四季「マンマ・ミーア!」を観ました。
今年はミュージカルが豊作だとか、ニュージーズがジャニーズ主演になってチケット全然取れないとか言っていたあの頃…
マンマ・ミーアも3月から5ヶ月ほど公演予定でしたが、4ヶ月間開幕できず、公演は1ヶ月に。
それでも観られただけよかったです。

舞台を観るのは3月末の「アナスタシア」以来4ヶ月ぶり。
マンマミーアは映画から入ったのですが、それも昨年のことで、ミュージカル版を見るのは初でした。

いろいろ好きな曲はありますが、完全に予想外なことに、Thank you for the musicで号泣してしまいました。
結構冒頭の方だし、正直マンマミーアの中でいえばそこまでメインのシーンでもない。
なにせその次の曲が表題の「マンマミーア」です。
ここで泣く場面じゃないはずなのに泣いてしまったのは、その歌詞がどんぴしゃだったからだと思います。

四季を観るのは久しぶりで、序曲の時点でそうかオーケストラなしか…と思いましたが、それでもやっぱり生の演技、そして生歌は素晴らしいんですよね。
そしてそんな生歌の良さがそのまま歌われているようなのがThank you for the musicで。
そういう点では詞を重視する四季だからこそ響いたのかもしれません。

割と冒頭で泣き始めてしまったので、その後はほぼ泣きっぱなしでした。
再開一発目がマンマミーアだったのは何か象徴的だったなと思います。
再開一発目とはいえ、二発目の予定は全然なくて、今年残っているのは宝塚版の「アナスタシア」だけです(東京公演は来年)。
宝塚も大変そうですが、なんとか頑張って欲しい。。。ほんとに。。。