*

 - くまのプーさん, 映画  - by poohya

ネタバレ感想『プーと大人になった僕』:プーとの思い出が蘇りクリストファー・ロビンとプーの運命に向き合う名作

『プーと大人になった僕』全米公開同日試写(はちみつの日「プー僕」日本一般最速試写)で観てきました。
名作です。素晴らしいです。
原題「Christopher Robin」の通り、「クリストファー・ロビン」とは何者なのかに向き合い、非常に心動かされる作品でした。
これまで原作方面でもディズニー方面でも深く見れなかった、100エーカーの森で過ごした「クリストファー・ロビン」とプーたちの運命を描いています。

以下、鑑賞済みを前提にしたネタバレを含む感想ですが、非常に長いです。
8000字あります。

100エーカーの森の「記憶」

プーは複雑な構造を持った物語です。
プーは実際のクリストファー・ロビン・ミルンが持っていたテディベアであり、100エーカーの森はモデルが実在します。
空想と現実、過去と現在など様々な次元が重なり合って生まれている世界です。

『プーと大人になった僕』は、大人になってプーの世界を忘れたクリストファー・ロビンが、幼い頃の思い出であるプーと100エーカーの森に再び足を踏み入れ、100エーカーの森の良さを再発見する物語です。
この構造は、「クマのプーさん」出版時、大人も夢中になって読んだ理由と同じものです。
「クマのプーさん」は少年クリストファー・ロビンがプーたちと遊ぶ物語ですが、作者はクリストファー・ロビン・ミルンの父A.A.ミルンです。
クリストファーが遊んだぬいぐるみ、遊んだ森が「クマのプーさん」の実際のキャラクターや舞台になっているのは確かですが、その根底にはA.A.ミルン自身が少年時代に経験した遊びが大きく影響しています。

「クマのプーさん」が出版されたのは1926年の英国。
第一次世界大戦が終わり、世界の中心がイギリスから移動しつつあった時代です。
子供が魔法のような不思議な世界で冒険を繰り広げる物語は、不思議の国のアリスからピーター・パンまで、英国児童文学の傑作が辿ってきた道です。
戦後に生まれた100エーカーの森には、イギリスの黄金時代に過ごした子供時代の夢の日々が投影されています。
黄金時代に生まれたワンダーランドやネバーランドとは異なり、100エーカーの森は人々の記憶から生まれた世界です。
本作では、クリストファー・ロビンが大人になる過程で第二次世界大戦を経験しています。
この戦争でイギリスは完全に世界の中心から外れ、ファンタジーではないリアルな世界へと変貌して行きます。
クリストファー・ロビンも時代とともに変わっていき、効率性を追い求める人生を送っています。
その根底には黄金時代への哀愁と憧れがあり、マデリンが寝る前の読書をせがんだ時に英国黄金時代の本を読みだした部分にも現れています。
「クマのプーさん」出版時に大人が引き込まれた理由の一つが、古き良き世界の懐かしさを100エーカーの森がもつ「記憶」に求めたからです。
100エーカーの森が生まれた時に子供だったクリストファーにとって、大人になって100エーカーの森に再訪することは父ミルンが「クマのプーさん」の物語を作り上げたときと同じ立場に達することなのです。

幼い頃から「プー」の物語に親しんで育った観客も、クリストファー・ロビンと同じ立場になり、プーの物語に今まであまりなかった強い共感性を生んでいます。
その仕掛けとして、原作「クマのプーさん」とディズニー「くまのプーさん」という別の次元が重なり合った、新しい世界観を作り上げています。
原作やディズニーのプーを好きであればあるほど心に響く構造で、さらに様々なシーンでファン向けの要素が詰まっています。

プーらしさ

実写版ということで、プーたちの造形もディズニーより原作に近いぬいぐるみらしい造形になっています。
原作に近い造形にディズニーアニメーションの動きが加わり、ぬいぐるみとして遊んでいたプーがそのままに動き出した、本当に可愛らしい姿になっています。
クリストファー・ロビンを見上げる動きや、クリストファー・ロビンの肩にそっともたれる動き、そしてクリストファー・ロビンがプーを抱きしめるシーンと、本当に可愛らしくぐっとくる仕草が目白押しです。

オープニングでは、E.H.シェパードの挿絵のタッチでプーとクリストファー・ロビンの物語が描かれていきます。
挿絵がそのままに動き出したような忠実なスタイルで、プーとの思い出がある人にはたまらない仕掛けです。
そしてお別れの日「最終章」の物語から実写で描かれます。
ディズニー版「完全保存版」でも最終章は描かれていますが、本作では原作版でしか出ていない、けつぎ文のシーンから始まります。
イーヨーが詠む詩も原作に出てきたものを短くしたものです。
そしてプーとクリストファー・ロビンは魔法の場所へと出かけます。
ここでも基本的に原作のセリフを用いながら話が進みます。
プーが世界で一番好きなこと、何もしないこと、100歳まで忘れないことといった「最終章」の名文が次々と出てきます。
そもそも最後にやってくる感動的な「最終章」のシーンなのに、それを最初に見せられたら映画の最後まで涙腺が持ちません。困りました。

原作タッチのオープニングですが、1文目は「Deep in the Hundred Acre Wood」。ディズニー版の主題歌の歌詞です。
原作は「Once upon a time, a very long time ago, about last Friday」から始まり、ディズニーでもこの1文が書かれていることが多い中で、ナレーター(=A.A.ミルン)の存在を薄める効果(後述)を持たせるとともに、原作とディズニーの融合を示しています。

本作では100エーカーの森のクリストファー・ロビンの家が次元を繋ぐポイントになっており、実際のロビン家の木に繋がっています。
史実でクリストファー・ミルン・ロビンが暮らした100エーカーの森の元となった場所アッシュダウン・フォレストでも、クリストファーはプーを持って大きな木のうろに入り、プーと遊んでいました。
本作でロビン家の別荘つまり幼い頃クリストファー・ロビンが遊んだ場所はロンドンから南東の位置にあるサセックスのハートフィールド。まさにアッシュダウン・フォレストが現存する場所です。
100エーカーの森での物語を一切崩さず、実際のイギリスの世界での物語と融合させる見事な設定です。

100エーカーの森の風景、特にプーとクリストファー・ロビンが2人で座る「魔法の場所」の辺りはアッシュダウン・フォレストそのまま。
ハートフィールドのクリストファー・ロビンの家も実際のコッチフォード・ファームとそっくりです。
100エーカーの森が生まれた風景がそのまま説得力ある画を作り出しています。
そこで大人になったクリストファー・ロビンがふとプー棒投げ橋に寄ったりするので、観ているこちら側の思い出にも訴えかけてきます。
舞台も動きも細部まで100エーカーの森らしさにこだわることで、初の完全実写映画でも違和感なくプーとの思い出を蘇らせてくれます。

リチャード・シャーマン

クレジット曲「Busy Doing Nothing」にまで登場するリチャード・シャーマン。
彼はクレジットでもう1曲「Christopher Robin」、冒頭のさよならパーティーの曲「Goodbye, Farewell」の計3曲を作曲しています。
加えて、かつてプーのために作った主題歌「くまのプーさん」と「おいっちに、おいっちに」「ワンダフル・シング・アバウト・ティガー」が歌われます。
「Goodbye, Farewell」劇中歌。原作の詩の要素をアニメーションで表現するためにシャーマン兄弟の歌が用いられてきたので、劇中歌の直後に詩を詠んでしまうと表現の重複になります。ここの歌はイーヨーのけつぎ文の歌でよかったように思いますが…

主題歌のWinnie the Poohのメロディは重要なシーンで何度も使われ、プーでの音楽の重要性を際立たせています。
クレジット映像でのシャーマンの登場には映像の間中笑いが止まりませんでしたが、その後またシャーマン本人が歌う曲「Christopher Robin」が本作の特徴を物語っているように感じました。
プーの視点でクリストファー・ロビンへの思いを歌ったような曲です。
作って歌っているのは、ディズニープーを1作目から手がけ、その後ディズニーを離れるも戻ってきてティガー・ムービーを手がけ、プーの音楽から離れることなく生きてきたリチャード・シャーマン。
シャーマン自身が最初にウォルトと共に兄弟でプーを作った時を思い出しながら、「くまのプーさん」と一緒に生きてきた月日を歌っているように感じました。
色々ありながらもディズニーで最も長いこと映画が作られ続けているシリーズになっている「くまのプーさん」。
クリストファー・ロビンのプーとの「記憶」を巡る物語は、観客とプーとの記憶、そしてリチャード・シャーマンとプーとの記憶も呼び起こさせる、この映画の構造が現れている曲だと思います。

見事なオープニングとミルンの欠如

映画はディズニーのロゴが挿絵のタッチで描かれる見事なオープニングから始まります。
そのままページがめくられていき、プーとクリストファー・ロビンの様々な冒険を振り返っていきます。
ロゴから本のページに移動することで、この映画は本の表紙を見せることなく物語に突入しています。
原作は父と子(A.A.ミルンとクリストファー・ロビン)の会話が導入で、ディズニープーではクリストファー・ロビンの子供部屋からA.A.Milneの著者名が書かれた本をめくっていく導入です。
本作ではその部分を違和感なく割愛し、著者の存在を無くしています。
さらに早々にクリストファー・ロビンの父親を死なせることで、クリストファー・ロビンの親が子供のために書いた物語という側面を完全に消し去っています。

「クリストファー・ロビン」に正面から向き合う作品

本作は原題の通り「クリストファー・ロビン」は何者かという物語です。
原作のクリストファー・ロビンは100エーカーの森の外にもプーたちを連れて行きます。
いわゆる「プーもの」は4冊あり、2冊が100エーカーの森が舞台、2冊はロンドンなどを舞台にした詩集です。
詩集ではクリストファー・ロビンの日々の行動が描かれており、その中に親友のテディベアとしてプーが登場することがあります。
ディズニーでは、『完全保存版』より後はクリストファー・ロビンが学校に通い出して以降の100エーカーの森の物語で、プーたちの話になっています。
クリストファー・ロビンは大抵最後にまとめ役として登場する程度です。
またディズニープーのOP/EDでもクリストファー・ロビンが子供部屋(現実世界)プーを所持していることが明らかになっています。
それに対して本作は100エーカーの森にいたクリストファー・ロビンを徹底的に描きます。
クリストファー・ロビンはロンドンやハートフィールドの家ではテディベアを所持しておらず、100エーカーの森に行かないとプーに会えないという設定です。
加えて著者で父のA.A.ミルンの存在が消えており、史実的な背景を排除したクリストファー・ロビン像を作り上げています。
プーたちとの関わりを100エーカーの森に限定することで、プーたちにとってのクリストファー・ロビンとは何者なのかを浮き彫りにしていきます。

クリストファー・ロビンとは

マデリンが発掘してきたプーたちとの思い出の箱を閉じ、プーの絵を渡されても放置し、プーたちのことを忘れようとしていたクリストファー・ロビン。
大人になったクリストファー・ロビンは、夢や魔法、ファンタジーを信じない典型的な大人の姿とは違います。
なぜならクリストファー・ロビンにとって100エーカーの森は現実に存在する世界だからです。
クリストファー・ロビンにとっての100エーカーの森は「記憶」であり、現在の厳しい環境で夢を叶えるには過去の記憶にとらわれてはいられないと考えるからこそプーたちを忘れようとしています。

プーを帰しに100エーカーの森へ再び足を踏み入れたクリストファー・ロビンは、ここで幼少期の「クリストファー・ロビン」像を突きつけられます。
プーは「クリストファー・ロビンだから」ピグレットたちを見つけられると言い、ピグレットたちは「クリストファー・ロビンなら」ズオウから救ってくれると言います。
100エーカーの森で起きる事件は基本的に大したことがありません。
プーたちは日々何もしないことをしているので、起こる問題もクリストファー・ロビン少年が簡単に解決できるようなものばかりです。
それでもプーたちにとっては困ったことをなんでも助けてくれる存在がクリストファー・ロビンです。
何もしないことをしている彼らを助けるには、効率的な助け方や論理的な説明では役にたちません。
クリストファー・ロビン自身が何もしないことをすることで、何もしないことをしているプーたちを助けられます。
このことに気付いたクリストファー・ロビンは風見鶏のズオウと戦い、その「遊び」を見たイーヨーは彼がクリストファー・ロビンだと確信します。

沈む船の話など、様々な場所で現実での解釈と100エーカーの森での解釈の違いがクリストファー・ロビンが進むべき道として暗示されています。
その中でも特に象徴的なのがクリストファー・ロビンがプーにあげたコンパス。
道に迷い何度も同じ場所に戻ってきてしまうシーン、これはラビットがティガーを迷子にさせようとした話とプーが自分の足跡をモモンガー(ジャギュラー)のものだと思い込んで木の周りをぐるぐる回り続けた話の両方がかかっています。
道に迷ったとき、クリストファー・ロビンは戦争で使ったというコンパスを取り出します。
N、北に向かって歩き続ければ迷わないとプーに教えます。
100エーカーの森の地図にはそれっぽい矢印がありますが「POOH」と書いてあり方角はわかりません。
当然プーも方角を知りませんし、マデリンに南と言われても知りませんでした。
しかしプーは北だけは知っています。
かつて北極てんけん(探検)に行き、無事北極(ノースポール=北にあった棒)を発見しているからです。
「北に向かって進む」ということは、ぐるぐる回らずに真っ直ぐ進むという意味と、てんけん(探検)するという意味が重なり合っています。

同じ場所を回るとはどういうことか。
本作の序盤、ウィンズロウに勤めるまでの話は本のページをめくる形式で展開されます。
原作と同様「In Which」から始まる章仕立てで進んでいきますが、クリストファー・ロビンの物語のあとでページをパラパラめくる間、プー原作の挿絵が何度も映ります。
クリストファー・ロビンが寄宿学校に通い結婚し戦争に行き就職する間もプーたちは原作同様の出来事に見舞われているということです。
しかしこの出来事は全てクリストファー・ロビンがいた時代、本作の1章(原作の最終章)より前に起きている出来事です。
つまり、クリストファー・ロビンが人生の階段を登る間もプーたちは昔と変わらない出来事を起こしていたのです。
いったい何回ズオウに怯えて逃げ回っていたのでしょうか。
クリストファー・ロビンの声を聞いて初めて彼の家の扉を開けたプー。今度はコンパスを渡されて、これまで経験したことのないロン・ドンへの大冒険に出かけることになります。

夢とは

夢はタダでは叶わない。
一見最近のディズニーで主人公が言いそうなセリフです。
早くに父親を亡くしたクリストファー・ロビンと戦後のロンドンは、夢を叶えるために効率的に努力して生きています。
プーたちは勝手に妄想したズオウに怯えたり、字を読み間違えて騒動を作り出したりと、解釈違いや間違えた想像で事件を起こしています。
100エーカーの森に対し知能が高く真面目に生きているロンドンでも結局はプーたちと変わらず、「夢はタダでは叶わない」という言葉に踊らされています。
クリストファー・ロビンが追う夢は大切な家族のためかと思いきや、そんなものは誰も望んでいませんでした。
追い求めている夢は本当に叶えたい夢なのか、道に迷っている中でとりあえず適当な夢を作っているだけなのではないか。
道に迷った時は自分が向こうを探しに行くのをやめて向こうがこっちに来るのを待ってみるとプーは言います。
この考え方が「何もしないことは最高の何かに繋がる」という本作で登場したキーワードを生み出しています。
「何もしないこと」とはただ寝ているという意味ではなく、取るに足らないことをする「別になんにも」をするという意味です。
夢を見失って迷ったときは、何もしないことをしていれば夢が向こうから見つけにきてくれるかもしれない、その時に夢に向かって進めばいいのです。
プーたちは何もしないことをしていますが、クリストファー・ロビンが何もしないことができなくなった時も素直にお別れをしただけでした。
「風船よりも大切なもの」のために前に進むことをプーたちは否定せず応援しています。
夢のために進むことは大事だけれど、その夢は本当に「風船よりも大切なもの」なのか、夢が迷子になっているなら何もしないことをしていれば夢がこっちを見つけにきてくれるかもしれません。

ラストシーンでプーとクリストファーは「今日」の話をします。
前回プーをロンドンから連れて帰りに100エーカーの森にきた時に「もう明日だ!」と言い頭の小さなプーとのおかしな掛け合いが発生していましたが、これが伏線となり最後の会話になります。
明日を見て生きることに必死な人々に対してプーは明日を迎えられるのか心配しています。
プーが今日を意識する会話は、「クマのプーさん」最後の章の最後にプーとピグレットの会話で示されています。

「プー、君が起きたとき、最初に自分自身に何て言う?」
「朝ご飯は何かな」プーは言いました。「ピグレット、君は?」
「今日はどんなワクワクすることがあるかな」
プーは頷きました。
「同じことだね」

本作の冒頭でプーが話した世界で一番好きなことに通じる、100エーカーの森を象徴するような原作の最後を飾る言葉です。
朝起きて朝ご飯について考えることは、今日一日の楽しみを考えることと同じ。
今その瞬間を楽しんでいればその後も明日もきっと楽しくなるというのが「何もしないことをする」やり方です。

プーの運命

クリストファー・ロビンは本作の最後でイヴリンとマデリンを連れて100エーカーの森へ戻ります。
ラビットたちは帰ってきたプーたちを見て安心するとともに、初めて会うイヴリンたちを出迎えます。
ここでロビン家3人が歩いていく様子を後ろから見守っていたのはプーでした。
「北に進んで」という言葉をかけながらクリストファー・ロビンと家族の姿を見るプーの後ろ姿、これまで見たプーの中で最も胸に刺さる姿でした。
プーたちはクリストファー・ロビンとお別れをしたあと何十年も彼のことを思い続けていました。
何十年ぶりに再会したときにクリストファー・ロビンの妻や娘に出会い、プーたちは彼女たちを心から歓迎します。
クリストファー・ロビンがどんなに自分達から離れてしまっても、プーたちは彼の幸せを心から願い祝福します。
ロビン家の3人をそっと見守るプーからはクリストファー・ロビンへの心の底からの友情が伝わってきました。
そしてプーはピクニック会場にはおらず、「魔法の場所」で一人クリストファー・ロビンを待っています。
少年時代にプーとお別れした「魔法の場所」は、クリストファー・ロビンに捨てられたプーがじっと彼のことを待っていた場所であり、物語の最後もまたクリストファー・ロビンを一人待っていました。
原作「プー横丁にたった家」最終章の最後の一説です。
“Wherever they go and whatever happens them on the way, in the Enchanted place on top of the Forest, a little Boy and his bear will always be playing.”
どんなことがあっても魔法の場所では「クリストファー・ロビン」とプーが遊んでいます。
本作で何度も登場したキーワード「遊び」(play)。「何もしないこと」の象徴のような意味合いを持っています。
クリストファー・ロビンがどんな道に進もうと、魔法の場所には少年時代の「記憶」があります。
プーは99歳になっても何もしないことをし続け、クリストファー・ロビンが「本当に大切なもの」のために進む様子を見守っています。
史実のクリストファー・ミルンは後の人生でクリストファー・ミルンとして有名になってしまったことを恨み、ディズニーではプーたちのドタバタ冒険が描かれていきます。
しかし、そんなことが起きてもプーはいつまでも魔法の場所にやってきて、クリストファー・ロビンを見守っています。
「クリストファー・ロビン」とは何者なのか、そして彼のテディベアである「くまのプーさん」の運命を見事に描いた名作です。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加