投稿者「poohya」のアーカイブ

長崎スタジアム構想、スポーツは不要不急なのか

ジャパネットがバスケットチームを作ると発表しました。
長崎駅近くに計画中のサッカースタジアムに作るコートを拠点にするとのこと。
スタジアムの話は、今年2月にイベントEXPOの基調講演「『長崎スタジアム構想』から考える、スポーツ、ライブエンターテインメントを軸とした地域創生の未来」で聞きました。
海外のサッカースタジアムの事例が紹介されていて、スタジアムに併設した施設が市役所に図書館に体育館にボーリング場に映画館にリハビリ施設になんでも入っていて、図書館からはスタジアムが無料で見られると。
特にサッカーは年間でスタジアムを使用する日数が少ないため、残りの日数をどう集客し稼ぐかが重要なんだそう。
日本国内でのスタジアムシティは、東京ドームシティが成功した先行事例として挙げられていて、そのシティの中には遊園地も含まれています。
スタジアムシティ計画はスタジアムのテーマパーク化と形容されそうです。
しかし、スタジアムが特別なイベント会場ではなく街と地続きになる構想であることが印象的で、そこがボールパークとスタジアムシティの違いな気がします。
スポーツは遊園地やライブハウスより圧倒的に人気で、どんな真面目なニュース番組でもスポーツコーナーがあるほどの存在ですが、結局はエンタメの1ジャンルであり”不要不急“の存在であることが示されてしまった数ヶ月でした。
しかし街の一部になったスタジアムシティは、実際の試合ができるかは置いておいて、施設としてはどんなときも必要な存在になれるものだと思います。
その時にはもっと心の栄養としてのエンタメの必要性が地域の人々に浸透するのではないでしょうか。

夢と魔法の王国がある世界

7/1にランドに行きました。
2月までは主に抽選目的で割と頻繁に行っていて、下旬にUSパークに行き帰ってきたら休園していたので、だいたい4ヶ月ぶりです。
年パス買って以降4ヶ月行かなかったのはさすがにはじめてかな?

年パスでいつでもパークに行く権利がある日常はまだ戻ってきていないし、次また来るのは何ヶ月後かわからない、不思議な感覚でした。
アトラクションに乗りまくったけれど、ベンチでぼーっと日向ぼっこするのも気持ち良くて、自分が入れるかは別としてもパークが存在していることの大きさを感じました。
ピアリや浦安市内で汽笛の音が聞こえるような、夢と魔法の王国がこの世界に存在しているということ。
まだ20:30の時報はないけれど、魔法がある次元とこの次元との架け橋が戻ってきたような気がしました。

そんなことを考えていたら映画『フロリダ・プロジェクト』を思い出しました。
WDWの近くのモーテルに住んでいる親子の物語。
夢と魔法の世界はこの世界と繋がっているのか、考えさせられてしまいます。
また見直してみよう。

ウィズ原宿を通った

ようやく外の取材も再開し始めて、1発目は原宿に行きました。
ついでにちょっと観光。
ウィズ原宿を見てきました。

原宿駅って丘の上で、代々木、表参道、渋谷と3方面が下り坂なんですよね。
下った先の渋谷が谷をまたぐように上層階に歩行者通路を通す再開発をしているのに対して、原宿は下る道を整備する感覚に思えました。
以前の原宿駅もホームから一旦2階に上がり、長いスロープで下りてくる形でしたが、新しい原宿駅はスロープの代わりに改札自体が2階に移動。
より駅から下りて地上に着く感覚が強まっています。
その目の前がウィズ原宿で、竹下通りへの抜け道が整備されているのが印象的でした。
原宿ながらユニクロとIKEAという観光より生活を重視したチェーンが入っているのも面白いですが、お店の構造が特殊です。
1階は右がIKEAで左がユニクロ。
2階は左右どちらもIKEA
地下は左右どちらもユニクロ。
玄関は2店舗で分け合いながら、もう1フロアは地下と2階を棲み分けることで、同じ床面積でも広いフロアを確保しています。
特にIKEAは広さがほしい店舗ですが、偶然にも物理的距離の確保が求められる中でのオープンに適したスタイルとなりました。

ウィズ原宿は地下に下りると竹下通り側の入り口にあたるため、当然ユニクロの方が2正面となり有利ですし、そもそもユニクロは離れのコーナーも用意されており、ウィズ原宿全体の中核店舗となっています。
竹下通り側の専門店街のようなユニクロの並びも面白いですが、どうせなら通り道としての店作りをユニクロで見せてほしかったです。

混雑対策のため各テナントが順番にオープンしていく形式を取っており、まだ他店舗が開いていないので全体の面白さは未知数ですが、高低差を利用した店作りの一つのスタイルが楽しみです。

ハックの冒けん

「ハックルベリー・フィンの冒けん」を読みました。
2017年に出版された柴田元幸さんによる邦訳版で、「冒けん」というタイトルが象徴しているように、ハックの知性レベルで書けそうな漢字を使い、ハックの語りで書かれた本である特徴を日本語で引き出した邦訳になっています。
という話をアトロクの特集で聞いて、そういえばディズニー関連の原作を読んでいた小学生とかの頃「トム・ソーヤの冒険」は読んだけれどハックの方は結局読まずじまいだったなと思い出しました。

柴田さんは、マーク・トウェインはハックに憧れたトム・ソーヤだったと評しています。
ハックは、いかだを最高の家だと言い、いつまでも自由で移動し続けることに憧れるアメリカ人の意識を反映しています。
一方のトムは将来「ロータリークラブの会長になって昔はやんちゃしてたとか語ってそう」な人物です。
ハックへの憧れはマーク・トウェインやトムだけでなく、トムソーヤ島を作ったウォルトも持っていたのではないかと思います。
そんなハックの旅のハイライトが、奴隷のジムをそのまま逃していいのかという葛藤です。
奴隷制が当然だった時代と場所に生まれたハックが、当時の倫理的な正しさと自分の気持ちの中で揺れ動く様を、奴隷制廃止後に描いています。
偶然にも今のタイミングでハックを読んでいると、どうしても現在進行形のアメリカの姿と重なってしまいます。

ハックの決断でハイライトを迎えたと思うと、トムが登場し茶番のような展開を迎えます。
「この作品以前にアメリカ文学とアメリカの作家はいなかった。この作品以降にこれに匹敵する作品は存在しない」と評したヘミングウェイが読む必要ないと言う章です。
トムが前例踏襲を重視し形式に固執する姿はいささか日本っぽさもありますが、「この作品以前にアメリカ文学はない」のですから、トムが参照する前例はヨーロッパ文学です。
トムソーヤ島を作り、アメリカ文化を保存しようとしたウォルトが、その隣にファンタジーランドを置いた感覚に近いものを感じます。
トムソーヤの冒険を具現化し、いつまでも少年のトムっぽかったウォルトが作ったディズニーランドは、やはりアメリカ人の夢なのではなく当時の白人層の夢の具現化なんだろうと思います。

expoから2年

colos EXPO 2018から丸2年が経ちました。
あれほど大きく開けたファンイベントは初めてだった一方、仕組みとしての限界もあり、どうすれば次の会ができるのかずっと考えてきました。
この2年、Hagexさんの事件やATNDの終了など、ファンイベントを取り巻く環境は決して良くなったとは言えません。
そして本来なら3回目のcolos EXPOが開催されてもおかしくないのが2020年。
元々開催の予定はありませんでしたが、もう仕組みなんて関係ないくらい大きな情勢で開催は不可能な状態です。
EXPOは動いていなくても、他の動きはあって、そこそこ関わっているものから参加者程度のものまで、開催発表直前までいっていたものから構想段階のものまで、色々ありました。
それも全て流れてしまった。
いつ復活できるのかは全然見通せません。
これまで、組織体の薄い形で開催することで有志が誰でも主催になれるような姿をとってきました。
しかし、開催する際に様々な対策が必要となった現状、その緩さが壁になるようにも感じます。
LT大会とかはweb会議システム使ってできなくはないけれど、それは面白いのか、内輪にならずにできるのか難しいところです。
どうすればできますかねーって酒飲みながらわいわい話し合うくらいは早くやれるようになりたいな。

ブルーインパルスと花火と宇宙船

ブルーインパルスが東京の空を飛び、日本の各地で花火が上がり、みんなで同じ空を見上げて繋がろうという動きが続けて起きています。
そんな中でもっと高い空、宇宙ではスペースXの宇宙船が国際宇宙ステーションに到着したとのこと。

空って不思議な存在だなと思います。
海や山は身一つでも行けないことはないけれど、人間が空に行くには文明的な技術が必要です。
届かない場所への憧れっていつの時代もあるんですよね。
「ソアリン:ファンタスティック・フライト」なんかまさに空への憧れの歴史を見る博物館です。
今から100年ほど前、リンドバーグが大西洋を横断して、その憧れを抱いていたのが最初に作られたミッキーでした。
さらにその50年ほど前、1963年に世界ではじめての地下鉄がロンドンで開業します。
その前年、ルイス・キャロルは即興で「地下の国のアリス」というお話を作ります。
編集され「不思議の国のアリス」になりますが、不思議の国に行くために穴を落ちるのは元々「地下の国」だったから。
「地下の国のアリス」がアリスに贈られるため製本された1864年、フランスではジュール・ヴェルヌが「地底旅行」(センター・オブ・ジ・アース)を出版します。
どちらも、ロンドン地下鉄が開業するという時代の中で、新たに人間が到達しようとする「地下」という未知の空間にロマンを感じたものでした。

一般人も宇宙まで簡単に行けるようになるかもしれないという時代が近付き、これから宇宙へのロマンがさらに大きくなっていくのかもしれません。
そして本当に誰でも気軽に宇宙旅行ができる時代がきたら、宇宙へのロマンは薄れ、空へのロマンも薄れるのでしょう。
もしかしたら何百年も続いてきた花火を鑑賞する感情も、あと何十年で変わってしまうのかもしれません。

Detroit: Become Humanを見た(やってはいない)

ゲームをまるでやらずに過ごしてきたおかげでゲームがど下手、下手だからやらないの負のループで完全なゲーム弱者としておなじみになっています。
というわけでどうぶつの森で時間を潰すこともない生活を送っていたところ、いろいろあって「Detroit: Become Human」のゲーム実況を見ることになりました。
もちろんゲーム実況を見ることもはじめてです。
ただ一気見癖はあるので、一気に全部見ました。
去年のGWはスター・ウォーズのTVシリーズをクローンウォーズが6シーズン、反乱者たちが4シーズン、計200話ほど一気見したので、それに比べたらゲーム実況19本くらい余裕です。そんなこともあってゲーム実況見ながらクローンウォーズとオーダー66の話がよぎったのですが、その話を書いたら無駄に長くなったので消しました。

タイトルの「Become Human」とはどういうことかというと、アンドロイドが発展した2038年の世界で、アンドロイドと人間の違いとはなんなのか?という物語です。
そこにはキング牧師の公民権運動を思わせる描写が多く、アンドロイドは人間の奴隷なのか否かという議論が架空の未来というより歴史の繰り返しとして語られます。
プレイヤーはアンドロイドを操作するので、自ずとアンドロイド側の心情に寄っていくのですが、それでも終盤に衝撃の事実が明かされたり明かされなかったり(そこまでの選択によって明かされない場合もあるんだと思う)して、人間とアンドロイドの違いとは何かを深く問いかけてきます。

ゲームの宿命的な制約として、好き勝手にどこまでも歩いていくことはできず、発言や行動も選択肢に出たものしかできません。
Detroitでは、ゲームの制約をアンドロイドの制約として利用していることが凄まじいところ。
さらに、それ以上先に進めないときに見える壁が、アンドロイドに自我が芽生えて制約を取り払うときに壁を破壊する描写をすることで、ゲームの制約とアンドロイドの制約が同じであることをはっきり認識させてきます。
ゲームとしての制約があることで、アンドロイドへの没入感がより強まるのです。
選択によって大量の分岐を作り、プレイヤーによってほぼ被ることがないであろうオリジナルのストーリーを生成するのが、Detroitの大きなコンセプトです。
このゲームの特性をアンドロイド活かしていることに大きな衝撃を受けました。
手描きアニメ、CGアニメ、ストップモーション、実写、小説、舞台、など世の中には様々な表現方法があり、それぞれに特性があります。
その媒体特性を活かした表現を行なっている作品に出会うのが好きです。
Detroitは、プレイヤーの選択で物語を描くゲームの媒体特性を完璧に活かしていると思います。
これ以上の設定は考えられないほど完璧です。
ゲームの特性を最大限に活かした設定がアンドロイドである一方、このアンドロイドの物語を描くのに最適な媒体が選択ゲームだと思えてしまい、両面から見てもゲーム形式とストーリー設定が完璧な取り合わせであることに感動してしまいます。

そして、この取り合わせが生む効果を考えていくと、プリンセス論にたどり着くのです。
https://maiyoko.com/2020/03/3665
Detroitは、自分で選択して未来が変わっていく物語ということで、自分にとってのハッピーエンドが何なのかをプレイヤー自らが見つける物語です。
つまり「Find Your Happily Ever After」を自分ごととして体験させるのが、ゲームだからこそできる体験になります。

ゴールがゲーム側から指定されていれば、途中の選択でもゴールへのルートを考えて合理的な選択をしていけます。
しかし、このゲームは選択と分岐が膨大すぎて、これストーリーに関係なくね?という選択も迫られますし、実際どれを選んでも同じストーリーが進む選択もあります。
そんな中で、プレイヤーは徐々に選択の軸、つまりゲーム内での自分の信念を元に選択を行うようになっていきます。
さらに、ストーリーが進むにつれて、ゴールすら自分の信念により決めるものだということがわかってきます。
すると、ゴールの設定も自分の信念だし、その途中にある道のりも自分の信念ということになり、途中の選択で何を選ぶべきかの悩みが大きくなっていきます。
例えば、なるべく争いたくないと思う人がゴールを平和的解決と捉えたとして、ゴールに最もたどり着きそうな選択肢が目の前の人を殺すだった場合、殺すを選択して自分の理想のゴールにたどり着いても、それは本当にハッピーエンドと言えるのかということです。
これって「プリンセスのパラドックス」のような現象で、自分はどういうヒーローになりたいのか、自分の物語を描く上で非常に大きな問題です。
(「プリンセスのパラドックス」とは「悪魔バスター★スター・バタフライ」で起きるプリンセスらしい行動を取るとプリンセスという立場を失うという状況)
だからこそ、重要人物を撃つか撃たないかのような選択よりも、目の前のモブを不幸にすればゴールが見えるという選択の方が難しく感じてしまいます。

そしてさらにすごいのが、プレイヤーが操作するキャラクターが3人いて、それぞれ別の物語が徐々に交差して大きな事件になっていくのですが、その交差の仕方も選択によって変わってくること。
各キャラクターに選択の軸を持たせて物語を進めていきますが、その軸同士が影響し合い、誰かの選択の軸を守るためには他の人の選択の軸を変えなければならない状況が発生します(選び方によってはしないんだろうけれど)。
1人のハッピーエンドを守るためには他の2人のハッピーエンドを犠牲にする決断が必要になるかもしれないし、当初思っていたハッピーエンドが他の2人に影響されることで実はハッピーエンドではないことに気付くかもしれません。
これを他人(コンピュータ)から影響されるのではなく、別人格を操る自分に影響されていくのが、ゲームならではの感情移入の仕方をもたらしていると思います。

アンドロイドが壁を突き破るゲームとしてのメタ表現、人を撃つか撃たないかよりも拾ったものを返すか返さないかの判断の方が心に重くのしかかる感情の持っていき方、この2点は中でも衝撃的でした。
様々な表現媒体がある中で、ゲームという媒体を全然知らないことにずっと引っ掛かりを感じていましたが、その中で1本見た作品がこれほどの衝撃を与えるものであったことを幸せに感じます。
一切自力でプレイしていないけれど。自分でやったら秒で死ぬ。

シナモンとプーが住む世界

続き

サンリオキャラクター大賞が始まりました。
シナモンの首位奪還を目指して毎日投票しましょう。
2020年サンリオキャラクター大賞

そういえば、サンリオのシナモンが好きになったのはTwitterからでした。
彼のTwitterでは、現実世界で雨が強い日はシナモンの町でも雨が降っていたり、風が強い日はシナモンも飛ばされていたりします。
自分の住む世界とシナモンの住む世界が繋がっているようです。
シナモンを好きになった頃から、「サンリオキャラは隣町にいそうな感覚があって好き」だと言っていました。

好きな風景と同じ構図だったんですね。
トロリーショーやボードウォークはファンタジーの隣町を作りそこに遊びに行けるようになっていますが、シナモンのTwitterはファンタジーが現実世界の隣町に引っ越してきてくれるようです。

現実世界とファンタジーの間にあるような世界にいたいんだと気付くと、ある言葉を思い出しました。
「さまざまな次元がゆるやかにオーバーラップした世界」
これは、プーの世界観について最も的確に表現していると思っている言葉です。

「有鄰」546号、英文学者の安達まみさんの「『くまのプーさん』生誕90周年に寄せて」より
“プーとはなにものなのか。複数の次元において曖昧である。なんといってもくまなのに、本物ではない。ぬいぐるみである。ミルンの息子クリストファーは、ハロッズで両親が購入したぬいぐるみのくまを与えられた。ところが、E・H・シェパードの挿絵に登場するくまは、このくまではなくシェパードの息子のくまらしい。さらに、物語でプーの兄貴分を演じるクリストファー・ロビンは、息子をモデルにしているが、クリストファーそのひとではない。生身のクリストファーとぬいぐるみの動物たちが、なかば現実の森でくりひろげる屈託のない遊びの世界とみえて、じつはそうともかぎらない。ほのぼのとした印象に包まれて、さまざまな次元がゆるやかにオーバーラップする物語なのだ。”

『プーと大人になった僕』でわかりやすく表現されていますが、100エーカーの森と現実世界は地続きながら別次元にあるのです。
僕はプーが好きですが、別に100エーカーの森の誰かになりたいわけではなく、それを見守る位の立ち位置が味わえるのがプーの魅力だと思っています。

好きな風景、好きなショー、好きなキャラクター。
全て「ファンタジーの隣町に住みたい」という気持ちに通じていました。

ファンタジーの隣町に住みたい

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最近イマーシブシアターが流行っているらしく、その話を聞きます。
イマーシブシアターは、ゲスト自身がテーマ性のある世界観の登場人物になり、物語が展開されるというもの。
でも、どうにも僕の中で魅力を実感できません。
頭の中では、これがテーマパーク的な方向性のたどり着く先なんだろうな、きっと理想型なんだろうなとは分かります。
しかし、どうも僕が体験したいことじゃない。
テーマパークは好きなのにイマーシブに心が動かないのはどういうことなのでしょうか。
つまり、物語世界の登場人物になりたいと思っていないんですね。

じゃあ何が好きなんだろうと考えていると、好きな風景がまとまってきました。

僕が好きな風景は、
・古典的な空間と現代的な建物が並ぶ
・古き良き街並みに人が住んでいて、その側にテーマパークの象徴があある
この2つを、自分の理想の居場所とファンタジーの世界に整理し直してみます。
1つ目では、古典的な空間がファンタジー、現代的な建物が居場所。
2つ目では、古き良き街並みが居場所、テーマパークがファンタジー。
場所の時代性が話をまどろっこしくしていましたが、どちらも理想の居場所とファンタジーの世界の関係になります。
2つをまとめると「ファンタジーの側に住みたい」のです。

ディズニーランドに住みたいとは思いますが、ファンタジーランドに住みたいのではなく、それを臨む場所に住みたいのです。
メインストリートUSAもボードウォークもテーマ化されたエリアですが、ファンタジーランドやEPCOTに比べて普通の人が住む街っぽさが強くあります。
そこがファンタジーの世界と隣町の違いです。
夢と魔法の空気を感じながら日常を送る心地よさがファンタジーの隣町の魅力なんだと思います。

ボードウォークとトロリーショー

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初めてウォルト・ディズニー・ワールドに行ったとき、Wishesやニモミュージカルにハマるのは前々から分かっていましたが、予想外にハマったものが2つありました。

ディズニー・ボードウォークとメインストリート・トロリーショーです。

ボードウォークはディズニー・ボードウォーク・イン周辺のホテルエリア。
湖を臨む古き良き水辺の遊歩道が展開されています。
対岸にはヨット&ビーチクラブリゾートがあり、湖はEPCOTとハリウッドスタジオを結ぶフレンドシップボートが通ります。
一度EPCOTからハリウッドスタジオまで船に乗ってみるといいよと勧められて軽い気持ちで乗ったのですが、一発でノックダウンされ、何度も船に乗り、ボードウォークをぶらぶら散歩するようにもなりました。
元々小型船が好きなのもありますが、浜辺や大きな難破船のあるビーチリゾートと和やかな商店街のような街並みが共存し、間に小型船が走る風景に完全に心を奪われてしまったのです。
そして、ここまで心奪われた大きな理由は、EPCOTのすぐ側にあるということ。
ボードウォークに行くためにバスに乗っていたらこんなに好きになってはいなかったと思います。
EPCOTとボードウォークは歩道で繋がっており、船でも移動できますが普通は歩いて向かう距離です。
この街並みのすぐ側にEPCOTがあると感じられることがまた心揺さぶります。

一方、トロリーショーは、マジックキングダムのメインストリートUSAで公演されるショーです。
メインストリートUSAの住人が、トロリーに乗ってやってきて歌い踊る小さなショーで、キャラクターは一切出てきません。
これも最初はショーリストに乗ってるなくらいの認識で、旅程終盤に暇になったので観てみるかくらいの気持ちでした。
トロリーショーは、ショーとして洗練されているわけでもなく、多くの人がやっているなーと横を通り過ぎるようなもの。
ディズニーランドに来たゲストに向けてショーを公演しているという感覚より、そこら辺に住んでいる人がふらっと出てきて歌い踊っているような感覚が強いです。
その分、出演者のメインストリートの住人感がすごいのが、ハマったポイントでした。
昔から聞いているメインストリートUSAのテーマソングがトロリーショーでも使われているのですが、「just around the corner is Fantasyland」という歌詞が流れたときに、トロリーショーに心を奪われたのです。
ファンタジーランドの隣町に住む人々が、キャラクターも魔法もないけれど楽しく踊り歌っている光景にハマりました。

ボードウォークもトロリーショーも、古き良き街並みに人が住んでいて、その側にテーマパークの象徴があります。
また好きなものの共通点が見えてきました。
前回まとめた好きな風景は「古典的な空間と現代的な建物が並ぶ」光景。
・古典的な空間と現代的な建物が並ぶ
・古き良き街並みに人が住んでいて、その側にテーマパークの象徴があある
見比べると近いような気がしますが、お互いが真逆な気もします。
近いような遠いような…

つまり何が好きなんだろう。

つづく