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キャラクターはこの世界に寄り添うべきなのか

ピューロのプレ再開日に行きました。
屋内施設でショーやグリが中心のピューロはこのご時世での運営がなかなか大変です。
ショーは3つの代替ショーになり、グリーティングは行うもののキャラクターには触れないスタイルです。
キャラクターがマスクをつけているのは非常に特徴的です。

代替ショーは、絵本読み聞かせ、撮影会、ダンスショーの3つ。
絵本読み聞かせは、キティとシナモンが「青い鳥」を読み聞かせてくれます。
主人公が兄妹という話の構成上、シナモンがキティのお兄さん役を演じるという滅多にない展開。
他の登場人物も全てキティとシナモンの2人でこなすので、キャラクターの声で他キャラクターの声優をするという高度なテクニックが楽しめます。
しっかり絵本を読みながら話すキティに対し、絵本が持てないシナモンは全身で演じる憑依型俳優になっていて可愛かったです。

撮影会はキャラクターがKAWAIIポーズを教えてくれて、それをゲストが撮影するというショー。
キャラクターは毎回変わります。
無茶振りっぽいお題でキャラクターにポーズを取らせるなど、なぜかシュールコントっぽい雰囲気で進行されます。
最後にはKAWAII FESTIVALが流れ、ゲストもカメラを持ちながら片手で踊る高度な芸当を見せていました。
レクチャー無しでダンス踊るだけでパレード感を出せるのはミラクルギフトパレードの大きな強みです。

そして普段はレギュラーショーを行わないエンターテイメントホールでは「Go for it」というキティとばつ丸のショーを公演。
ダンスで元気になろうという趣旨のショーですが、最後の曲は沢山のキャラクターがビデオ通話で参加するという、今らしいスタイルで、最小限の人数しか出せないショーへの回答を行なっていました。

3つのショーを通して、家にいても、キャラクターと離れていても幸せを見つけられること、その見つけ方を教えてくれているように感じました。
「青い鳥」の物語をテーマパークで描くのは自己矛盾的ですらあると思います。
過去や未来のファンタジー溢れる世界に夢の旅に出るも、本当の幸せはそこではなく家にあるという物語です。
これを今語るということは、ピューロに頻繁に来られない状況で、ピューロに行かなくても幸せを見つけられるというメッセージに感じました。
KAWAII撮影会も単にキャラクターが可愛いポーズを取るから撮影してねというディスタンスグリーティングではなく、可愛いポーズを教えてくれる先生という設定で、ゲストが自分でKAWAIIを作れるようにという意図が見えます。
そしてGo for itは実際に多くのキャラクターがビデオでしか登場しません。
キティとばつ丸の2人しか出ませんが、その理由が経費削減のようでないものは誰もが分かっています。
2人しか出ないのはしょうがないという中で、たくさんのキャラクターが駆けつけるのは感動的で、初回は客席から感動の混じったどよめきが聞こえました。
会いに行けなくても繋がっていることを強く実感させられました。

逆にこれを感じなかったのがディズニーです。
ディズニーパークは「コロナのない世界」で、ゲストはその綺麗な世界にコロナを持ち込まないように楽しもうと言われました。
パークは常に完璧な理想郷で、そこへの逃避を(綺麗な世界を汚さないよう制限しながら)楽しめるようでした。
ディズニーキャラクターで外出自粛をする世界に寄り添ったのは、オラフの動画とSing Along番組のマペッツだけでした。
ではディズニーもサンリオのようにコロナのある世界に住めというかといえばそうでもなくて。
プーがEpcotでのソーシャルディスタンスグリーティングとして芝生で虫取りをしていますが、これはこれでいいと思います。
100エーカーの森はこの次元に無いし、プーが感染を心配しながら生活するのは違う気がする。
同じ世界にいて寄り添ってくれるパークと、綺麗な世界で逃避させてくれるパークと、両方あってゲスト自身の気持ちに合ったパークを楽しめるのが良いと思います。
ただ、これからの世界で多くの人に求められる世界観は、寄り添ってくれるものな気がしています。

昭和の完璧なアイドルから平成の会いに行けるアイドルへの変化があって、自粛中にはYouTubeやInstagramなどで自宅から配信する人が増えました。
別次元の存在から、会いに行ける距離になり、自分たちと同じように自粛を強いられている姿を見せる、寄り添ってくれる存在に変化しているようです。
キャラクターもまた、寄り添ってくれる存在が求められていく気がしています。

今からディズニーキャラクターが急に寄り添えと思っているわけではないし、その別次元への憧れみたいなものがディズニーの強さでもあると思うんですが、これからもその方針で大丈夫なのか勝手に心配になりました。

ハックの冒けん

「ハックルベリー・フィンの冒けん」を読みました。
2017年に出版された柴田元幸さんによる邦訳版で、「冒けん」というタイトルが象徴しているように、ハックの知性レベルで書けそうな漢字を使い、ハックの語りで書かれた本である特徴を日本語で引き出した邦訳になっています。
という話をアトロクの特集で聞いて、そういえばディズニー関連の原作を読んでいた小学生とかの頃「トム・ソーヤの冒険」は読んだけれどハックの方は結局読まずじまいだったなと思い出しました。

柴田さんは、マーク・トウェインはハックに憧れたトム・ソーヤだったと評しています。
ハックは、いかだを最高の家だと言い、いつまでも自由で移動し続けることに憧れるアメリカ人の意識を反映しています。
一方のトムは将来「ロータリークラブの会長になって昔はやんちゃしてたとか語ってそう」な人物です。
ハックへの憧れはマーク・トウェインやトムだけでなく、トムソーヤ島を作ったウォルトも持っていたのではないかと思います。
そんなハックの旅のハイライトが、奴隷のジムをそのまま逃していいのかという葛藤です。
奴隷制が当然だった時代と場所に生まれたハックが、当時の倫理的な正しさと自分の気持ちの中で揺れ動く様を、奴隷制廃止後に描いています。
偶然にも今のタイミングでハックを読んでいると、どうしても現在進行形のアメリカの姿と重なってしまいます。

ハックの決断でハイライトを迎えたと思うと、トムが登場し茶番のような展開を迎えます。
「この作品以前にアメリカ文学とアメリカの作家はいなかった。この作品以降にこれに匹敵する作品は存在しない」と評したヘミングウェイが読む必要ないと言う章です。
トムが前例踏襲を重視し形式に固執する姿はいささか日本っぽさもありますが、「この作品以前にアメリカ文学はない」のですから、トムが参照する前例はヨーロッパ文学です。
トムソーヤ島を作り、アメリカ文化を保存しようとしたウォルトが、その隣にファンタジーランドを置いた感覚に近いものを感じます。
トムソーヤの冒険を具現化し、いつまでも少年のトムっぽかったウォルトが作ったディズニーランドは、やはりアメリカ人の夢なのではなく当時の白人層の夢の具現化なんだろうと思います。

Detroit: Become Humanを見た(やってはいない)

ゲームをまるでやらずに過ごしてきたおかげでゲームがど下手、下手だからやらないの負のループで完全なゲーム弱者としておなじみになっています。
というわけでどうぶつの森で時間を潰すこともない生活を送っていたところ、いろいろあって「Detroit: Become Human」のゲーム実況を見ることになりました。
もちろんゲーム実況を見ることもはじめてです。
ただ一気見癖はあるので、一気に全部見ました。
去年のGWはスター・ウォーズのTVシリーズをクローンウォーズが6シーズン、反乱者たちが4シーズン、計200話ほど一気見したので、それに比べたらゲーム実況19本くらい余裕です。そんなこともあってゲーム実況見ながらクローンウォーズとオーダー66の話がよぎったのですが、その話を書いたら無駄に長くなったので消しました。

タイトルの「Become Human」とはどういうことかというと、アンドロイドが発展した2038年の世界で、アンドロイドと人間の違いとはなんなのか?という物語です。
そこにはキング牧師の公民権運動を思わせる描写が多く、アンドロイドは人間の奴隷なのか否かという議論が架空の未来というより歴史の繰り返しとして語られます。
プレイヤーはアンドロイドを操作するので、自ずとアンドロイド側の心情に寄っていくのですが、それでも終盤に衝撃の事実が明かされたり明かされなかったり(そこまでの選択によって明かされない場合もあるんだと思う)して、人間とアンドロイドの違いとは何かを深く問いかけてきます。

ゲームの宿命的な制約として、好き勝手にどこまでも歩いていくことはできず、発言や行動も選択肢に出たものしかできません。
Detroitでは、ゲームの制約をアンドロイドの制約として利用していることが凄まじいところ。
さらに、それ以上先に進めないときに見える壁が、アンドロイドに自我が芽生えて制約を取り払うときに壁を破壊する描写をすることで、ゲームの制約とアンドロイドの制約が同じであることをはっきり認識させてきます。
ゲームとしての制約があることで、アンドロイドへの没入感がより強まるのです。
選択によって大量の分岐を作り、プレイヤーによってほぼ被ることがないであろうオリジナルのストーリーを生成するのが、Detroitの大きなコンセプトです。
このゲームの特性をアンドロイド活かしていることに大きな衝撃を受けました。
手描きアニメ、CGアニメ、ストップモーション、実写、小説、舞台、など世の中には様々な表現方法があり、それぞれに特性があります。
その媒体特性を活かした表現を行なっている作品に出会うのが好きです。
Detroitは、プレイヤーの選択で物語を描くゲームの媒体特性を完璧に活かしていると思います。
これ以上の設定は考えられないほど完璧です。
ゲームの特性を最大限に活かした設定がアンドロイドである一方、このアンドロイドの物語を描くのに最適な媒体が選択ゲームだと思えてしまい、両面から見てもゲーム形式とストーリー設定が完璧な取り合わせであることに感動してしまいます。

そして、この取り合わせが生む効果を考えていくと、プリンセス論にたどり着くのです。
https://maiyoko.com/2020/03/3665
Detroitは、自分で選択して未来が変わっていく物語ということで、自分にとってのハッピーエンドが何なのかをプレイヤー自らが見つける物語です。
つまり「Find Your Happily Ever After」を自分ごととして体験させるのが、ゲームだからこそできる体験になります。

ゴールがゲーム側から指定されていれば、途中の選択でもゴールへのルートを考えて合理的な選択をしていけます。
しかし、このゲームは選択と分岐が膨大すぎて、これストーリーに関係なくね?という選択も迫られますし、実際どれを選んでも同じストーリーが進む選択もあります。
そんな中で、プレイヤーは徐々に選択の軸、つまりゲーム内での自分の信念を元に選択を行うようになっていきます。
さらに、ストーリーが進むにつれて、ゴールすら自分の信念により決めるものだということがわかってきます。
すると、ゴールの設定も自分の信念だし、その途中にある道のりも自分の信念ということになり、途中の選択で何を選ぶべきかの悩みが大きくなっていきます。
例えば、なるべく争いたくないと思う人がゴールを平和的解決と捉えたとして、ゴールに最もたどり着きそうな選択肢が目の前の人を殺すだった場合、殺すを選択して自分の理想のゴールにたどり着いても、それは本当にハッピーエンドと言えるのかということです。
これって「プリンセスのパラドックス」のような現象で、自分はどういうヒーローになりたいのか、自分の物語を描く上で非常に大きな問題です。
(「プリンセスのパラドックス」とは「悪魔バスター★スター・バタフライ」で起きるプリンセスらしい行動を取るとプリンセスという立場を失うという状況)
だからこそ、重要人物を撃つか撃たないかのような選択よりも、目の前のモブを不幸にすればゴールが見えるという選択の方が難しく感じてしまいます。

そしてさらにすごいのが、プレイヤーが操作するキャラクターが3人いて、それぞれ別の物語が徐々に交差して大きな事件になっていくのですが、その交差の仕方も選択によって変わってくること。
各キャラクターに選択の軸を持たせて物語を進めていきますが、その軸同士が影響し合い、誰かの選択の軸を守るためには他の人の選択の軸を変えなければならない状況が発生します(選び方によってはしないんだろうけれど)。
1人のハッピーエンドを守るためには他の2人のハッピーエンドを犠牲にする決断が必要になるかもしれないし、当初思っていたハッピーエンドが他の2人に影響されることで実はハッピーエンドではないことに気付くかもしれません。
これを他人(コンピュータ)から影響されるのではなく、別人格を操る自分に影響されていくのが、ゲームならではの感情移入の仕方をもたらしていると思います。

アンドロイドが壁を突き破るゲームとしてのメタ表現、人を撃つか撃たないかよりも拾ったものを返すか返さないかの判断の方が心に重くのしかかる感情の持っていき方、この2点は中でも衝撃的でした。
様々な表現媒体がある中で、ゲームという媒体を全然知らないことにずっと引っ掛かりを感じていましたが、その中で1本見た作品がこれほどの衝撃を与えるものであったことを幸せに感じます。
一切自力でプレイしていないけれど。自分でやったら秒で死ぬ。

ボードウォークとトロリーショー

続き

初めてウォルト・ディズニー・ワールドに行ったとき、Wishesやニモミュージカルにハマるのは前々から分かっていましたが、予想外にハマったものが2つありました。

ディズニー・ボードウォークとメインストリート・トロリーショーです。

ボードウォークはディズニー・ボードウォーク・イン周辺のホテルエリア。
湖を臨む古き良き水辺の遊歩道が展開されています。
対岸にはヨット&ビーチクラブリゾートがあり、湖はEPCOTとハリウッドスタジオを結ぶフレンドシップボートが通ります。
一度EPCOTからハリウッドスタジオまで船に乗ってみるといいよと勧められて軽い気持ちで乗ったのですが、一発でノックダウンされ、何度も船に乗り、ボードウォークをぶらぶら散歩するようにもなりました。
元々小型船が好きなのもありますが、浜辺や大きな難破船のあるビーチリゾートと和やかな商店街のような街並みが共存し、間に小型船が走る風景に完全に心を奪われてしまったのです。
そして、ここまで心奪われた大きな理由は、EPCOTのすぐ側にあるということ。
ボードウォークに行くためにバスに乗っていたらこんなに好きになってはいなかったと思います。
EPCOTとボードウォークは歩道で繋がっており、船でも移動できますが普通は歩いて向かう距離です。
この街並みのすぐ側にEPCOTがあると感じられることがまた心揺さぶります。

一方、トロリーショーは、マジックキングダムのメインストリートUSAで公演されるショーです。
メインストリートUSAの住人が、トロリーに乗ってやってきて歌い踊る小さなショーで、キャラクターは一切出てきません。
これも最初はショーリストに乗ってるなくらいの認識で、旅程終盤に暇になったので観てみるかくらいの気持ちでした。
トロリーショーは、ショーとして洗練されているわけでもなく、多くの人がやっているなーと横を通り過ぎるようなもの。
ディズニーランドに来たゲストに向けてショーを公演しているという感覚より、そこら辺に住んでいる人がふらっと出てきて歌い踊っているような感覚が強いです。
その分、出演者のメインストリートの住人感がすごいのが、ハマったポイントでした。
昔から聞いているメインストリートUSAのテーマソングがトロリーショーでも使われているのですが、「just around the corner is Fantasyland」という歌詞が流れたときに、トロリーショーに心を奪われたのです。
ファンタジーランドの隣町に住む人々が、キャラクターも魔法もないけれど楽しく踊り歌っている光景にハマりました。

ボードウォークもトロリーショーも、古き良き街並みに人が住んでいて、その側にテーマパークの象徴があります。
また好きなものの共通点が見えてきました。
前回まとめた好きな風景は「古典的な空間と現代的な建物が並ぶ」光景。
・古典的な空間と現代的な建物が並ぶ
・古き良き街並みに人が住んでいて、その側にテーマパークの象徴があある
見比べると近いような気がしますが、お互いが真逆な気もします。
近いような遠いような…

つまり何が好きなんだろう。

つづく

好きな景色

自分はどういう世界観が好きなのかについて、最近答えが見えてきた気がして。
何か決定的なことがあればそのタイミングでまとめたいと思っているのですが、とりあえず今のところを整理して覚えておくために書き綴っておきます。
まだぼんやり考えているので、最後まで結論にたどり着かない気はしています。
何回かに分けて書くことになると思います。

小学校の社会科見学で浜離宮恩賜公園に行ったことをすごく覚えています。
日本的な庭園の背景にビル群が立ち並ぶ光景は今でも思い出すほど強烈に印象に残りました。
このミスマッチさは違和感よりもむしろ安心感を覚えました。

10年ほどたち、自力で海外に行くようになり、パリの街を見ました。
パリの街並みは美しいのですが、何か足りないと感じるのです。
もちろん、パリの市街が好きじゃないわけではありません。
美しさを感じながらも、100点を超えることはない、一目惚れして心にどんと来るような景色ではなかったのです。
同時に行ったロンドンは予想以上に好きでした。
この差ってなんだろう。

ロンドンのテムズ川には様々な橋がかかっていますが、一番気に入ったのはミレニアムブリッジでした。
テムズ川からミレニアムブリッジ越しに見えるのはセント・ポール大聖堂。
メリー・ポピンズでおなじみの荘厳な大聖堂の前にかかるのはミレニアムを記念した現代的な橋です。

再びパリで凱旋門から市外の方向を見たとき、美しく街並みが揃った市内を見てきた中で急に安心感を覚えました。
東京やロンドンにあって、パリの完璧な街並みにないものはなんだろう。
そうぼんやり考えていたことへの答えが見えてきた気がしました。

伝統的な空間に、現代的な建物があるのが好きなようです。
それはミスマッチさや違和感が好きなわけではありません。
歴史と伝統が残る世界にも現代の暮らしを感じられるところが好きなんだと思います。
凱旋門から市外を見たとき、あ、パリも人が住んでるんだと感じました。
いや、パリの古くからの街並みにも現代の暮らしがあるのは分かっているんだけれど。

古典的な空間と現代的な建物を並べたくなる、この感覚はなんだろう、次はパークで好きな景色を並べてぼんやり考えます。

キューティ・ブロンドを観た

色々あって急遽キューティ・ブロンドを観に行きました。
シアタークリエ ミュージカル『キューティ・ブロンド』
よかった。めっちゃよかった。
ここ1週間ずっとサントラ聴いています。
最高。

主人公はブロンドの女の子エル。
プロポーズされるかと思ったデートで彼氏ワーナーに「上院議員を目指す自分の妻としてブロンド娘はふさわしくない」と振られ、ワーナーの望む女になろうと猛勉強しワーナーが通うハーバードロースクールに合格。
しかしワーナーには既にロースクールに新しい彼女がいて、エルは見返し奪い返すために一人前の弁護士を目指して奮闘していくという話。

何が良かったのかというと、エルがとにかくポジティブで周りまで幸せにしていく存在なこと。
ポジティブで周りまで幸せにしていく物語が大好きです。
ラプンツェルの「I’ve Got a Dream」のように、荒くれ者に夢を追わせるような存在。
弁護士になろうと他者を蹴落としても勝つような固い世界の中で、自分のカラーを消すことなくポジティブに突き進むエルが、弱肉強食すら変えてみんなを幸せに変えていく最高に心地良いストーリーでした。

プリンセスは「ロイヤル」に変わる。ソフィア最終話が見せた新境地|舞浜横丁とか、最近「プリンセスはこうあるべき」みたいな像について語っていますが、根底にあるのは最近のディズニーの「プリンセス」マーケティングのもやもやです。
プリンセスという名前に色々着せすぎだろう、プリンセスじゃないやつ混じってるだろうと。
Dream Big Princessではプリンセス呼称を自ら否定したモアナを担ぎ上げ、単なる夢見る女の子という意味に変えてしまうのは変だろうと。
お姫様として扱うなら責任のある「ロイヤル」であるべきだというのが今の結論ですが、そもそもプリンセスという括りをやたら拡大するマーケティングがおかしいのです。
今の「ディズニープリンセス」に着せている夢とかは王家とか全く関係なく、本来プリンセスではなくヒロインの意味で使うものでしょう。
そういう視点で見たときにエルは完璧なヒロインです。
自分のその時の夢を追いかけ続け、自分のカラーを守り、周りにも影響を与える明るさを持つ。
深いこと考えずに主人公を思いっきり応援して自分まで幸せをもらえるような、まさにキューティ・ブロンドのような物語を求めていたんだと気付きました。

空想ペルクライム/Les Nankayaru

8/24〜27、中目黒キンケロ・シアターにて『空想ペルクライム/Les Nankayaru』が公演されていました。
http://www.nankayaru.com

僕はふわっとしたお手伝いをしていました。
ふわっとしたお手伝いは公演中が一番暇な時間なので、楽屋のモニターで全公演観ていました。
あとはラジオ「花奈澪のコンフェティ☆シャワー」の生放送が本人の舞台と被るという事態のため急遽代打としてラジオをやったりしていました。
楽屋中継に出ていただいた皆さんありがとうございます。
さらに不思議なことに1公演だけ客席で鑑賞することができました。
正しい解釈などない舞台だと思いますが、感想を残しておきたいと思います。

『空想ペルクライム/Les Nankayaru』は、1部が芝居、2部がレビューショー(生演奏)という、小劇場とは思えない内容の舞台です。
「なんかやる」シリーズとしてはある意味順当な(訳:狂った)進化です。
構成だけでも狂っていますが、細部にも「なんか」やりたいことを詰めまくっていて、やりすぎて客席が引かないか心配になったほどです。

第1部と第2部で内容は全く異なります。
第2部は生演奏のバンドが増えますが、出演者は変わらず、みんなお芝居とレビューショーをします。
その結果、さっきまで高校生だった人がミュージカルをしたりアイドルになったり。
衣装も第1部で制服だけだったものが、第2部では再現度の高い衣装が次々と変わっていき、日常と華やかなレビューのギャップが生まれています。

第1部が「未来から見た過去」であり、第2部は「過去から見た未来」です。
『空想ペルクライム』の物語は、要所要所で出演者が「あの時は〜だった」と過去形で振り返る形式です。
青春時代の7週間を振り返った記憶が『空想ペルクライム』でした。
一方『Les Nankayaru』では、レミゼを演じたりアイドルになったり、目まぐるしく役柄が変わっていきます。
仲間たちがアイドルになったりミュージカルに入ったりしたらという、青春時代の妄想のような世界がステージに広がります。
「Another Day of Sun」で始まり「夢」で終わるステージです。

輝かしい夢を見せられる分、第1部の「日常」が対比されるわけですが、『空想ペルクライム』の「日常」には見ていて明らかな違和感があります。

『空想ペルクライム』は、2つの「死」の間、7週間の物語です。
柏木母の死と、奈蔵の死。
柏木を除くクラスメイトからすると、前者は少し遠い人の死、後者はかなり身近な死。
奈蔵の死は8人の人生においていつまでも残り続けることでしょう。

奈蔵の死で物語は終わりますが、語り部として振り返っている彼らは友人の死を受け入れた上で当時を振り返って語っています。
舞台では描かれない、身近な死を乗り越えたときが確実に存在するわけです。
8人は大きなショックを受けたでしょう。
他のクラスメイトや同じ学年の人たちもショックを受けるでしょうが、8人とは大きさが異なります。
周りから見ると、8人の立場は最初の柏木の立場と同じになってきます。
母の死を受けて自分だけ死と向かい合っていた柏木にとっては、同じ立場の人が一気に増えます。
柏木は、奈蔵の死をみんなで共有し、こんな思いを抱えて生きているのが自分だけではないと気付いたことで、悲しみを分け合える友達ができたのです。
みんな日常生活がそれまでと変わらなくとも、人には見せずとも、そこには「死」が隠れています。
常に笑顔だった影には何があったのか、誕生日のサプライズを受けたらどんな表情をしたのか、どうして死を選んだのか。
考えることはあっても、今更考えたって何も変わらない。
「まあ、今となってはなんでもいいんじゃないですか」
時間が経ってからその頃を振り返る時、楽しかった思い出が強調されて思い出されます。

この物語は特定の誰かの視点で進むわけではありません。
それぞれの人物が同じ過去を振り返ることで、話の軸とは直接関係ない枝葉が伸び、話に揺らぎが生まれます。
文化祭に向けた7週間を振り返るとき、「日常」の中から思い出されるエピソードこそ、事件を経て楽しかった思い出として乗り越えるために必要なものです。
個性豊か、ある意味バラバラな彼らが、あの物語の後にそれぞれ乗り越えたものがあり、それが彼らそれぞれの思い出を作っています。
その差が揺らぎを生み、「空想」らしさを出しているのでしょう。

特定の誰かの視点を強制されないことは、あちこちの世界から出演者が集い、ファンもそれぞれの役者の元から集う「なんかやる」において自然に生まれてくるアプローチです。
それぞれ好きな人の視点で物語を観られ、その人の夢を観られます。
もちろん目当てで来たのとは別の人が主役に見えてしまったり、魅力に気付いたりすることもあるでしょう。
単なる演劇でも単なるライブでもなく、出演者それぞれが「なんかやる」ことで生まれる魅力が、「なんかやる」の醍醐味の一つだと思っています。

ふわっとしたスタッフでしたが、4日間でご来場いただいた方々が「なんかやる」を楽しんでいただけたなら良かったなと思います。
あとはラジオ代打回を聞いても懲りずに来月以降も「花奈澪のコンフェティ☆シャワー」を聞いていただけたらありがたいです。

平和な国

22日目

日付変更線を越えて帰国。
機内映画では3回覚醒しました。

何も揉め事が起こらない日本は良い国です。
電車は非常停止ボタンやら線路内人落下で遅れたけれど。
求めているホスピタリティも違います。
アメリカのディズニーホテル<日本のコンビニ
コンビニといえば3週間ぶりに帰宅したら近所のコンビニが潰れていました。
驚いて親に聞いたら、今朝突然潰れていて自分たちも驚いていたところだと言われました。
まじか。浦島事案じゃなかった。

お家についたらとりあえず納豆を食べてお風呂にゆっくり浸かりました。
そして愛しの布団と再会。
即寝落ち。
3週間開けるとさすがに帰国翌日から動かないとまずいので時差は飛行機で合わせてきました。
そもそもお昼寝補正があるので時差ボケに気付きません。

そんなわけで長い長い旅を終えて無事に帰ってきました。
日記をつけることだけはできて良かったです。
それぞれについては舞横を中心に、たまにこのブログやD-labに書く予定です。
たくさんの夢が叶い、新たな願いと想像力そして未来を見つけられた旅でした。
22日間、特に中身のない日記にお付き合いいただきありがとうございました。

閏日を利用して帰ります

21日目

帰ります。
Magical Express(今回はクルーズバスじゃなかった)に乗ってオーランド国際空港へ。
カウンターがあるものは大抵揉めるのがこの旅です。
飛行機も毎回自動チェックインがうまくいかなくて揉めます。
なぜか毎回予約が消えているらしく、復活させて搭乗。
なぜか席が未確定で搭乗5分前に決定。
なぜか搭乗時に変更される。
この時新たな座席券を渡されたのですが、引き換えにJFK→HNDの搭乗券を捨てられるというミス。
飛行機乗ると自分の席に他の人が座っている。
もう何も上手く行っていませんが、連日のフロント揉めで慣れているので余裕。

こうしてLAXにつきました。
羽田行きの搭乗券を再発行して、搭乗待ちです。
着いたゲートと同じゲートから搭乗らしい。
なんとなくもう一揉めくらいありそうな気がしますがもうちゃんと帰れればなんでもいいです。
あ、呼び出し放送が日本語になってる。日本人いるならなんとかなりそう。

住みたい

20日目

最後はたっぷりマジックキングダム。
開園セレモニーからメインストリートUSAの市民が登場します。
ここのメインストリートUSAは街として生きている感じがとても好き。
特にトロリーショーはお気に入りです。
Dream Along with MickeyやDapper Dans、Move it!などを観ていると永遠と終わらず、ほとんどの時間をメインストリートUSAかハブにいました。

トロリーショーでメインストリートUSAに日本人が住んでいることがわかったので僕も住みたい。
シンデレラ城を臨む温かな街、いいな。

かなりのんびりとマジックキングダムの雰囲気を満喫し、最後はWishes。
結局7回観ました。
最後はミッキーに挨拶して、マジックキングダムを後にしました。

大好きなWishesと一緒に、シンデレラ城のこともより一層好きになりました。
この青空には会えなくても、シンデレラ城がある東京にいられてよかった。
EPCOTではシーが懐かしくなり、マジックキングダムではランドが懐かしくなってきました。
たくさんの新しい空気を吸って、舞浜の景色がどう変わって見えるのか楽しみです。
というわけでそろそろ帰ります。