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 - 駄話  - by poohya

Disney100がたぶん終わった

2023年が終わり、Disney100もたぶん終わります。きっと紅白が見納めになったのでしょう。
D23 Expoあたりからぬるっと始まったDisney100。日本は結局グッズイベントだなと思っていたら、日本はまだ頑張っている方といったくらいで、ぬるっと終わりそうです。10/16の100周年当日にはアナハイムが祝い終わっていた始末。
日本は周年好きなのとレトロが流行るタイミングでオールドデザインがハマったのが上手くいった印象。40周年を食い潰しました。

本当は『ウィッシュ』でもっとディズニーが今どういうウィッシュを描くのかを考えたかったのですが、こんなに薄っぺらい話だと深く捉えてもほとんどが自分の考えを元にした意見なだけになってしまうので、考えることをやめました。
ベスト映画は『リトル・マーメイド』、次点『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー vol3』です。
ディズニー以外だと朝ドラ「らんまん」。最終週がすごかった。長い物語の終わらせ方として史上屈指の名作でした。

ワンダラス・ジャーニーの最後、普通なら良いメッセージを語る部分で、まさかのプーが登場しボケをかまします。
「Disney100 センチュリー・オブ・ドリームス」でも繰り返されました。
もう一度最初のページに戻ってやり戻そうというプーに対して、ナレーターがツッコミの形で未来へ進むことを語るのです。
このシーンは『くまのプーさん 完全保存版』の最終章の導入にあたります。
最終章だと告げられ、もう一度1ページ目に戻ろうとプーがいうシーンです。
その後、プーはクリストファー・ロビンから遊べなくなることを告げられ、100歳になってもここにいることを約束します。
プーは1ページ目に戻るのではなく、同じようなことをやり続け、100年の歳月を過ごしていきます。
歴史は繰り返すのではなく韻を踏むだけというドロッセルの名言(本当はマークトウェインの言葉)のように、過去に戻るのではなく韻を踏みながら前に進んでいくという姿をディズニーのこれからの100年に見ていきたいなと思います。

来年は東京の超大勝負ファンタジースプリングスが待っています。
良いお年を。

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 - 駄話  - by poohya

ミュージカル「アナスタシア」を観た

『アナスタシア』は、1997年に公開された20世紀フォックスのアニメーション映画。
当時TSUTAYAのディズニーコーナーに置いてあったVHSを観ていて、後にディズニーではないと知ることになります。
ディズニー以外のプリンセスアニメーションとしては最高峰の作品として、特に主題歌「Journey to the Past」を中心に愛されてきました。
そんな中、ディズニーがフォックスを買収したことで、20世紀スタジオ作品としてディズニー傘下入り。
D23 Expo 2022では、ディズニープリンセスコンサートの際に、ディズニープリンセスではないけれどと言いながら、『アナスタシア』主題歌「Journey to the Past」が歌われ、アニメーションのダイジェスト映像まで流れました。
というわけでディズニー作品です。

ミュージカル版は、映画公開から20年後の2017年にブロードウェイで初演。
日本では2020年に日本人キャストによる公演が行われましたが、コロナ第1波でほとんどが中止となり、2023年にようやくきちんと公演できました。

アナスタシアは、帝政ロシア最後の皇帝ニコライ2世の娘。
ロマノフ家は1917年のロシア革命で退位し、翌年に一家ごと銃殺されました。
しかしアナスタシアだけは生き残ったという都市伝説が広まりました。
『アナスタシア』の物語はこの都市伝説をベースにしています。
後に遺体からアナスタシアのDNAが検出され、銃殺の事実が確定しますが、アニメーション公開当時はまだDNA鑑定ができず、都市伝説も残っていました。

ロマノフ家滅亡から月日が経ち、記憶喪失の少女アーニャは、サンクトペテルブルクでディミトリとブラドという2人組に出会いました。
ディミトリとブラドは、アナスタシアの祖母でパリに住むマリア皇太后がアナスタシアを見つけた人に懸賞金を出していると知り、ロシアで適当な女の子をアナスタシアに見立てて懸賞金を騙し取ろうと計画していました。
2人はアーニャをアナスタシアに見立てて教育しながらパリへ向かいます。
皇太后は詐欺だと思いアーニャのことも拒絶しますが、アーニャが持っていたオルゴールの鍵が皇太后の持つオルゴールと一致し、アーニャこそアナスタシアだと判明。
アナスタシアとしての身分を手に入れたアーニャですが、ディミトリと生きることを決めます。

ディズニーによるミュージカルは、「ライオンキング」に代表されるように、どういうスタイルの舞台を作るか趣向を凝らしています。
「アナスタシア」はミュージカルとしては奇をてらわないオーソドックスなスタイルです。

ストーリーも骨格は維持しつつ、ロシアにいるパートが長くなるなど、アナスタシア以外のキャラクターの心情描写を増やす舞台らしい変更が加えられています。
そして、アニメーション版の楽曲も使用していますが、曲順を大胆に入れ替えています。
特にすごいのが主題歌「Journey to the Past」。
アニメーションでは、孤児院を出たアーニャがサンクトペテルブルクを目指す、アーニャ初登場シーンの曲でした。
ミュージカルでは、第1幕ラストに移動させ、アーニャがパリに踏み入れるシーンに変更されました。
全く違うシーンですが、歌詞もそのままで、1幕分のアーニャの心情が詰まった歌に昇華されています。
D23 Expoでわざわざ歌われるほどのプリンセスソングを歌い切って第1幕が終わる、圧倒的なシーンになりました。
歌自体はアニメーション版そのままだから、特別イベントとしてミュージカルのアーニャ役が歌う背景にアニメーションの映像も流せます。

そして、アニメーションから最も大きく変えたのは、世界観のリアリティラインです。
アニメーション版のヴィランはラスプーチン。彼も史実の人物ですが、ここでは魔法使いに設定されています。
ロマノフ家の滅亡がラスプーチンの魔法として描かれ、銃殺描写を行わないようにしています。
その後もラスプーチンが魔法でアナスタシアの行く手を阻んでいきます。
それに対して、ミュージカル版ではヴィランを変更。
ラスプーチンは登場せず、ボリシェヴィキの将校グレヴというキャラクターが新たに作られ、彼がヴィランになります。
ロマノフ家滅亡も、ボリシェヴィキの銃撃隊による銃殺だと語られ、グレヴはその銃撃隊の子どもです。

アニメーションでは、物的証拠や魔法もあり、アーニャがアナスタシアであることが確定しています。
ミュージカルでは、アーニャが思い出していく記憶がアナスタシアのものだろうと思われ、みんながアーニャこそアナスタシアだと信じていく、状況証拠だけで組み立てられています。
最後まで「彼女は本当にアナスタシアだったのでしょうか」と言わせるほどです。
史実の都市伝説も、この人こそアナスタシアなのではないかという人物がいて、本人の供述も偶然なのかアナスタシアのものと一致していたそうで、ミュージカル版のアーニャの状況証拠では都市伝説と変わらないのです。

アーニャは記憶喪失で得られなかったHOME、LOVE、FAMILYを求めて「過去への旅」へと出かけます。
過去への旅の中でアナスタシア伝説に巻き込まれていきますが、ミュージカルではパリへ踏み出す瞬間に「Journey to the Past」を持ってくることで、アナスタシアとして過去への旅に出る決意を新たにしています。
そしてアナスタシアの祖母である皇太后と会い、自分は何者なのかを激しく問われます。
自分が何者か名乗るのは、グレヴの前でした。
(皇太后に聞かれて名乗れずグレヴに聞かれる時には名乗れるようになっている流れを見てるとdpost.jpの中の人の笑顔が浮かびます)
ボリシェヴィキ銃撃隊の息子というアナスタシアと対になった存在と向き合い、ついに自分がアナスタシアだと宣言するのです。
グレヴと向き合いアナスタシアだと宣言することは、自分を殺せと言うことと同義です。
プロローグでは難しい時代に「お祈り」頼みの様子を描いたり、第1幕でロシアの人々を描いたりすることで、革命後のロシアもひどいが帝政ロシアもロマノフ家以外は輝いていなかった姿も見えています。
アーニャはアナスタシアだと宣言し、ロマノフ家の血筋であることまで背負うのです。
プリンセスらしさとは人々への責任も示すことだという、ロイヤルさを見せています。

一方、これまでの騒動になる主犯のディミトリ。
彼は序盤の曲A Rumor in St.Petersburgで、「おとぎ話を信じるか?」と尋ねられ「世界中が信じるおとぎ話を作る」と答えます。
この物語は、詐欺師としておとぎ話を作ろうとしたディミトリが、自身が作ったおとぎ話に飲み込まれていく話でもあります。
詐欺師として全てを手に入れたと思ったディミトリが、ただ一つ失うものがあると気付き、その一つのために全てを捨てるのです。

アーニャもまた、アナスタシアとして生きても失うものがあることに気付きます。
こうしてアーニャはアナスタシアとしての身分を捨て、ディミトリと生きることに決めました。
アーニャにとって本当のHOME、LOVE、FAMILYを見つけたのでした。
自分はプリンセスなのか問い続けて旅をしたアーニャが、自分がプリンセスであることを受け入れた上でプリンセスを選ばない物語です。
プリンセスストーリーでありながら、プリンセスを追い求めそれを捨てることで、自分の人生を自分で選択することが強く描かれています。

ラストシーンでは、背景が絵画風に塗り変わり、おとぎ話らしさが強調されます。
ブラドも皇太后もみんな、アーニャがアナスタシアだと信じた上で、対外的にはおとぎ話に過ぎないと宣言して終わるのです。
幻想を追い求めても得られるものはないかもしれませんが、それでも世の中にはおとぎ話は必要なのだと思わせてくれる作品です。

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3D、VR、AR、映像アトラクションの行方

来年には東京ディズニーシーにファンタジースプリングスがオープンします。
最大のアトラクションとなるピーター・パンのライドは、3Dメガネをかける形式っぽく、となると3Dボートライドという得体の知れないライドになります。

フィルハーマジックの『リメンバー・ミー』アップデート


3Dアトラクションはシアタータイプとして昔からありますが、飛び出て見えることが大きな売りでした。
しかし今やもはや飛び出るだけでは驚かれない技術となっています。
印象的なのは、3Dシアター時代に誕生した「ミッキーのフィルハーマジック」が最近実施した『リメンバー・ミー』シーンの追加。
フィルハーは典型的な飛び出て見えるシアターアトラクションですが、そこに15年以上経って新映像が追加されました。
『リメンバー・ミー』は死者の国の街並みを奥行きを持って描くことに重きを置いており、飛び出てこない3Dでした。
他のシーンとの違いが際立っていました。
ただ、3Dが奥行き使用メインになると、映画館との差異はより失われていきます。
そこにどうテーマパークらしさを付加するのか、シアターではないアトラクション要素に3Dを組み合わせていくことになります。

シアター形式からの進化

普通の座席で映像を見るシアターが進化したのが、座席が浮いてスクリーンに入って行く「ソアリン」。
ソアリンは球面スクリーンを用いていますが、これを3D映像にすることで平面スクリーンにして、キャパシティを増やしつつ端から見た時の映像の歪みもなくしたのが、「アバター:フライト・オブ・パッセージ」です。
一方、既存ライドの映像部分に3Dを取り込んだのが、「ハリー・ポッター・アンド・ザ・フォービドゥン・ジャーニー」。
ただこれは3Dを導入したものの、後に3D無しに戻りました。
なんでも3Dにすれば良くなるわけではないことが、示されてしまった形です。
実際、ハリー・ポッターは映像以外のシーンの比率も高いので、3Dで視界が暗くなるのはデメリットが大きすぎたと思います。酔うし。

VRコースターは到達点へ

世の映像コンテンツとしては、3Dの次はVRの時代となっていますが、これまたテーマパークではアトラクションと組み合わせることでここだけの体験を作り出しています。
USJではXRライドを何年も映像を変えて運行しています。
XRライドの特徴は、既存のコースターの物理的なスリルをVRに加えられることです。
本来VRは映像だけでもスリルを与えられますが、実際にコースターが落ちていることでよりスリルは増しますし、風なども当然リアルに感じられます。
XRライドは様々なコラボを行なってきました。
「鬼滅の刃 XRライド」はオーソドックスな演出で、キャラクターの見せ場とコースターの落下が連動するパターンを繰り返しています。
開催中の「進撃の巨人 XRライド」は最高傑作だと思います。
鬼滅ではライドが列車になっていて行き先が見えたのに対し、進撃ではゲストの目がVRゴーグルで塞がれて本来のコースが見えないことを利用しています。
コースターらしいアップダウンは、巨人の腕を登るなど動きのあるアクションで演出することで、どう落ちるか分からないスリルが味わえます。
立体機動という空中を利用したアクションが行えるのもコンテンツとの相性の良さでしょう。
さらに、落ちてくる岩を避けてとキャラクターから指示が入り、VR映像なので本来関係ない動作をさせられるわけですが、コースターとは関係ない動きも促すことで、ゲストの気を散らして没入感やスリルを増させています。

シューティングライド 3DかARか

スーパーニンテンドーワールドの「マリオカート〜クッパの挑戦状〜」は、ARを活用しています。
VR(仮想現実)が視界を全てCGで作り込むことに対して、ARは拡張現実。
実際の視界に、映像を付け足す仕組みです。
ARでは実際の視界の作り込みが活かされるので、テーマパークにはプロップス作りの優位性があります。
マリオカートでは、この技術をシューティングライドに使ってきました。
シューティングといえば「トイ・ストーリー・マニア!」が3Dを使っています。
このとき3DとARの違いは、視線の先がスクリーンかプロップスかに出てきます。
トイマニでは、ステージが終わる毎にライドが動き、次のステージへ向かいますが、向かった先もスクリーンなので、動き続けるライドというアトラクションの効率のために動いているだけです。


DCAの「WEBスリンガーズ:スパイダーマン・アドベンチャー」では、3Dシューティングはそのままに、シューターがゲストの手を読み取るシステムに進化しています。
これにより両手でスムーズに撃てるようになりましたが、スクリーンからスクリーンに移動する形は変わりません。
マリオカートではシューターはハンドルになっており、打つ方向はARグラスを用いて視線で決めるシステムです。
さらに打てる甲羅の数が決まっており、シューティングアトラクションが陥るひたすら連打するだけの状態から解放され、打つタイミングの戦略が必要になります。
打つ・打たないのタイミングがあることで、周りを見る余裕もでき、ARならではのプロップスや空間の作りに入り込みやすくなります。

ここにきてVRウォークスルー

ARとして一発目とは思えない高い完成度のアトラクションを作ったUSJですが、再びVRのアトラクション「XR WALK」をオープンさせました。
何もない箱でVRゴーグルを付けて歩き回る、かなりオーソドックスなスタイルです。
コンテンツは、第一弾としてモンスターハンターを展開中です。
XR WALKのすごいところは、自分でアバターの衣装や武器を選べるところ。
ディズニーではVOIDがスター・ウォーズなどのVRウォークを行ってきましたが、この辺りが明らかに違い技術の進歩を感じます。
さらにスター・ウォーズではブラスターを撃つだけだったのが、モンスターハンターでは剣を振る短距離戦が行えます。
武器によって特性があり、終了後にもらえるスコアにも影響するので、得意な武器を見つけたり、チーム内で分担したり、何度も楽しめるシステムになっています。
VRブームとはいえ、一本橋のようないわゆるVRアトラクションっぽいことを体験している人はそんなに多くない現状。
XR WALKでは前半にフィールドを歩き回るアクティビティが用意されており、ただ戦闘するだけのVRではなく、VRらしい足がすくむ感じや落ちる感じを体験できるようになっています。
ここでは採集ミッションを入れることで、リピーターもある程度まで楽しめる仕掛けを用意。
要所要所でしっかりリピーター向けの配慮を入れてくるのはさすがです。
ここはVRがもっと広まっていけば構成も変わっていくのでしょう。
フリーウォークと言えども実際に歩ける範囲は物理的な制約があるわけで、今回進むべきルートは導蟲を使うことで世界観を崩さずに示せています。
一方これ以上行けない境界はただの赤い壁で、ゲスト同士が近付いても壁が出てくるので、大体の人は見てしまうような世界観から外れたものになってしまっています。
特に戦闘時など、その場で立った状態で剣を振るのですが、説明はないので歩き回れるのかと思ってしまいます。
せっかく氷の上なのだから、氷が割れて自分のスペースだけ独立しているような演出をとれば伝わりやすいのにとか、まだ改善の余地は感じます。
しかしモンスターハンターを知らなくても非常に体験価値の高いもので、USJにはVRアトラクションを何本も作り続けてきたノウハウがしっかりあることが伝わってきます。

テーマパークの優位性とは

XR WALKはテーマパークらしさはノウハウにもたらされており、テーマパーク内に置くべき物理的な制約はありません。
ディズニーのVOIDもダウンタウンディズニーなどパーク外にありました。
XRライドも初期から指摘されている、ゴーグル装着の人海戦術や元のアトラクションからキャパが半減していることが、一切解決されずに続いています。
マリオカートではこれを解決するシステムがふんだんに取り入れられていますが、これはARで激しくないアトラクションだからやりやすいことでもあるのでしょう。
USJにおけるVRアトラクションとARアトラクションの最大の差は、VRはどちらも期間限定で半年程度で内容を変えるものであり、ARのマリオカートは常設アトラクションであることです。
VRなど物理的な制約の少ない映像アトラクションは、頻繁に内容を更新できる利点があります。
他社IPとのコラボで予算のかかった期間限定アトラクションを作るのはUSJの独自性のようになっており、他のパークではあまりありません。
ディズニーでは「スター・ツアーズ:アドベンチャー・コンティニュー」が新映像を定期的に導入していましたが、それでもUSJのクールジャパンの頻度とは比べものになりません。
フィルハーマジックが15年も同じ映像でやっていたことからも、新映像は意外と面倒そうなことが伝わってきます。

ディズニーでは、映像アトラクションが切り替えやすいという利点を、ランダム体験に利用している傾向があります。
スター・ツアーズではシーン毎にパターンが用意されており、組み合わせでかなりの種類の体験があります。
「ニモ&フレンズ・シーライダー」はパターン切り替え時の映像がかなりシームレスになっています。
「ミレニアム・ファルコン:スマグラーズ・ラン」は、さらに進化してリアルタイムにレンダリングして映像を出しています。
これは3Dではなく、自身の操縦によって映像が変わっていくというもの。
ここまでくると逆にゲームセンターにあるようなゲームとの差異が分かりにくくなってきます。
特にスター・ウォーズだとバトルポットがあるので、テーマパークでわざわざ体験するアトラクションとしては弱めになってしまいます。
映像アトラクションの切り替えやすいという利点は、ランダム性になり、やがてインタラクティブ性になってきています。
インタラクティブになるほど、ゲームに近づいていき、さらに同時体験人数が少ない方が操作の反映が大きくなるため、体験するチームは小型化。
テーマパークのアトラクションの優位性が薄れていってしまいます。

結局、ライドアトラクションでプロップスと映像の組み合わせが、テーマパークらしい映像アトラクションを作る方法になる気がします。
上海のカリブの海賊のように、プロップスを置きつつ、奥行き演出のある映像や、全面スクリーンで迫力を出すのが最適解のよう。
全面スクリーンによる海中から浮上するシーンの臨場感は映像ならでは。
ファンタジースプリングスが同じものをピーターパンの海賊船でやってくれるならそれだけで満点でしょう。
しかし、3Dグラスとプロップスの相性の悪さはハリー・ポッターが証明してしまっており厳しめ。
ARでは、同じグラスながら、この上から映像を加えられるため、AR+プロップス+スクリーンという3段階での演出も可能。
また、個人毎に違う映像を出せるため、インタラクティブ性の利点が出てきます。
マリオカートでのアニマトロニクスにAR映像を重ねる演出は、ライドアトラクションの将来性を感じさせました。
ファンタジースプリングスのピーターパンは一体どうなるのでしょうか。

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 - 駄話  - by poohya

2010年代のディズニー・プリンセス像 「Find Your Happily Ever After」から「Life After Happily Ever After」へ

『白雪姫』から描かれ続けてきたディズニー・プリンセスの物語。
ディズニーはどういうプリンセス像を描いているのか、このサイトでは主に「ちいさなプリンセス ソフィア」と「悪魔バスター★スター・バタフライ」で何度も話題にしてきました。
2010年代のプリンセス像は『モアナ』で一旦の完成を見せ、さらにソフィアとスタバが追加した姿を『アナ雪2』が示しています。
2020年代の物語が始まる前に、プリンセス史を振り返りながら、現在のプリンセスの到達地をみていきたいと思います。
前半はさらっと振り返りますが後半(特にソフィアとスタバ)が長いです。

各章の頭にその章が扱う作品を列挙しています。
その作品についてはネタバレを含みます。

<目次>
1. 初期のディズニー・プリンセス
2. 行動するプリンセス
3. 「プリンセスとは」を問う時代
4. 価値観のアップデート
5. Find Your Happily Ever After
6. ディズニー・チャンネルのプリンセス
7. 長編で「Life After Happily Ever After」を描く

1. 初期のディズニー・プリンセス

白雪姫(1937年)
シンデレラ(1950年)
眠れる森の美女(1959年)

ウォルト時代のアニメーション作品でプリンセスものは3作品です。
どれもディズニーを代表する作品として今でも扱われており、「ディズニーのプリンセスは待っているだけ」と揶揄されるときはこの時代の物語がイメージされているのでしょう。
むしろ結婚観が当時の古いものでも、アニメーションや音楽は現代でも観られるものになっているのがおそろしいです。
その価値観をアップデートするため、現代になり実写版が制作されていくことになります。

2. 行動するプリンセス

リトル・マーメイド(1989年)
美女と野獣(1991年)
アラジン(1992年)

『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』が立て続けに大ヒットし、ディズニーアニメーションは復活を遂げます。
『眠れる森の美女』までとの大きな違いは、プリンセスが自ら行動することにあります。
王子に一目惚れしたアリエルが海と陸の境を越えていくことが象徴的です。
もう一つの変化は、タイトルを見ると分かります。
『リトル・マーメイド』まで、プリンセスの名前や象徴する単語がタイトルになっていますが、『美女と野獣』から相手の「野獣」が名前に加わります。
これまで、平民からプリンセスになったのはシンデレラだけでした。
ところがベルは、家柄もなければプリンセスへの憧れもなく、相手が王子だったから結果的にプリンセスになっただけです。
ベルは非常に行動的な女性ですが、作中で成長するのは野獣がメインです。
そして、ジャスミンは最初から最後までプリンセス。
初めて嫁がないプリンセスです。
タイトルもプリンセス側の名前が外れ『アラジン』。
どぶネズミ扱いのアラジンが王子になる、プリンスストーリーです。
ジャスミンはプリンセスである窮屈さを描いており、プリンセスという立場になることは素晴らしいという価値観を初めて崩しています。

さらに『ポカホンタス』『ムーラン』と、プリンセスとは関係ないヒロインが描かれていきます。
しかしディズニーは彼女たちも「ディズニープリンセス」として括ることになっていきます。

3. 「プリンセスとは」を問う時代

魔法にかけられて(2007年)
プリンセスと魔法のキス(2009年)
塔の上のラプンツェル(2010年)
アナと雪の女王(2013年)

『魔法にかけられて』で伝統的なアニメーションへの回帰路線を打ち出したディズニー。
ジゼルは冒頭で古典的なプリンセスとして2Dアニメーションで描いています。
様々なセルフパロディが込められていますが、立ち位置としては初期の「待っているだけ」が意識されています。
そのアンチテーゼのようにジゼルとナンシーは、「待っているだけ」で出会う相手ではない人を選びます。
過去のディズニー自身へのセルフパロディでありアンチテーゼとなった作品が第3次黄金期前夜に登場したのは象徴的です。

『プリンセスと魔法のキス』では「真実の愛」の定義が問われます。
こちらも典型的なプリンセスであるシャーロットではなく平民のティアナが王子と結婚します。
ティアナは平民からプリンセスになってめでたしめでたしではなく、実際はナヴィーンが平民に降りたような暮らしになります。

ラプンツェルは自らの夢のために行動し、相手も泥棒のフリン。
終盤まで自分がプリンセスであることを知りません。
王子も王女も登場しないストーリーで、平民とプリンセスの対比が出せない中、ラプンツェルはプリンセスらしい人物だと行動で観客に示されていきます。
行動する力、周りを巻き込む力、夢見る力、それらを突き動かすポジティブさをラプンツェル自身の振る舞いで見せて、終盤でそれがプリンセスだと回収しています。

『アナと雪の女王』はアナとエルサのダブルヒロインですが、エルサはレリゴーする人みたいなポジションで、魔法を制御する術を身につけるだけという画期的な結末。
ストーリーを進めているのはアナで、幼い頃から城に閉じ込められ、典型的なプリンセスストーリーを夢見るアナが、それっぽい王子と出会うも、本当の相手は平民のクリストフだと気付く物語です。
アナは近年のプリンセスの姿を詰め込んだような物語を歩みます。
そこに「真実の愛」の相手が恋の相手とは限らず姉妹(家族)だという話が組み合わさっています。
ハッピーエンドですが、エルサこれでハッピーエンドなの?感は残ります。
アナ雪のすごいところは、大ヒットしたおかげで続きの短編が作られ、これの出来が良いおかげでハッピーエンドだったんだ感が強まったところにもあります。

4. 価値観のアップデート

シンデレラ(2015年)
美女と野獣(2017年)
アラジン(2019年)
(実写版)

ディズニーアニメーションが第3次黄金期とも呼ばれる時代になろうとしている頃、ディズニーでは実写映画を推し進めようとしていました。
『アリス・イン・ワンダーランド』『マレフィセント』と、古典作品を新たな視点で描こうとしますが、いまいち当たりません。
そんな中、アニメーションと大筋のストーリーを変えずに実写化してしまったのが『シンデレラ』でした。
作風や設定を大きく改変するのではなく、デザインもストーリーもアニメーションと似たようでいながら価値観を現代にアップデートしたことが画期的でした。
「待っているだけ」と揶揄される時代のプリンセスストーリーを、逆境でも「プリンセスらしさ」を失わない強い女性が行動に合った立場を獲得する物語に描きなおしたのです。
この成功を受け、ディズニーの実写化プロジェクトは路線が固まり、ついにミュージカルアニメーションをそのまま実写化することになります。

超期待プロジェクトと化した『美女と野獣』。
実写になることでカートゥーンチックなシーンを省き、個々のキャラクターを深く描いています。
ベルは行動的で頭の良い女性で、プリンセス像があまり古くないため、ベルが自ら選択し行動するシーンをさらっと加えるだけで、見た目はアニメーションほぼそのままで作り上げています。

一方『アラジン』はアラジンとジャスミン、そしてジーニー3人を通して自由と力を対比しているため、ジャスミンの物語としては弱いものがあります。
実写版ではジャスミンの物語を重点的に補強することで、1人の女性としての現代性を獲得させています。

『ムーラン』も無理やりプリンセスに押し込まれるヒロインとなっており、公開前ですが実写版ではシャン隊長を出さないなど、プリンセスではないヒロイン像を描こうとしています。

5. Find Your Happily Ever After

モアナと伝説の海(2016年)
Happily Ever After(2017年)

モアナは村長の娘で、立場上はプリンセスに当たります。
しかし島を統治する立場ながら、海に選ばれた者として自分の心は広い海を向いています。
このまま島にいては島が廃れてしまうが、海に出るのは危険。
島と海の間で葛藤するモアナですが、家系と海から選ばれた者という、どちらも与えられた立場でしかありません。
マウイとの冒険を通して、モアナは本当の自分の心を知り、新たな時代の村長となる行動を取っていきます。
自分の心を知りそれに従い行動する姿は、これまでのディズニープリンセスが描いてきた姿の集大成のようであり、それが愛と関係する必要がないことを示しました。

モアナが提示した姿は立場上のプリンセスか否かによりません。
ここでディズニーは「Dream Big Princess」というキャンペーンを打ち出します。
「全ての夢見る女の子はプリンセスになれる」というものです。
王家の生まれでなくても、王子と結婚しなくても、全ての夢見る女の子はプリンセスになれるのです。
シンデレラのように王子様と出会って結婚してプリンセスになりたいではなく、シンデレラのような勇気と優しさを持ったプリンセスになりたいという、立場としてのプリンセスではなく人格としてのプリンセスに憧れることになります。
ところで、これは女の子に限った話なのでしょうか?
「プリンセスらしさ」が自分の心に従うことになった今、それは老若男女誰もができることです。

その頃、ウォルト・ディズニー・ワールドではプロジェクションマッピング「Happily Ever After」がスタート。
数々のディズニーの物語が映し出され、「Find Your Happily Ever After」と歌われます。
つまり、これまでのディズニーストーリーのように、あなた自身の物語を見つけようということです。
自分の心に従って、自分の物語を見つけること、そこはプリンセス像が拡張された先の、男女の境がないディズニーストーリーになっていきます。

6. ディズニー・チャンネルのプリンセス

ちいさなプリンセス ソフィア(2012年〜2018年)
悪魔バスター★スター・バタフライ(2015年〜2019年)

『塔の上のラプンツェル』と『ラプンツェルのウェディング』の間を描くアニメーション「ラプンツェル・ザ・シリーズ」では、第1話で「Life After Happily Ever After」という歌が登場します。
「Find Your Happily Ever After」で自分の物語を見つけることで現代のプリンセス像の集大成が見えたような中、そのHappily Ever Afterの後の物語を描こうという動きが出てきます。

「ちいさなプリンセス ソフィア」は、村娘だった女の子ソフィアが母親の再婚で突然プリンセスになり、プリンセス学校で学びながら自分らしいプリンセス「ソフィア1世」(Sofia the First)を目指していくディズニー・チャンネルのアニメーションシリーズ。
ソフィアが突然プリンセスになるのは第1話の冒頭のことです。
古いプリンセス観ではここでめでたしめでたしとなってしまいます。
しかしソフィアは立場上のプリンセスではなく、「プリンセスらしさ」を身につけ、自分らしいプリンセス像を獲得しようとしていきます。
ソフィアの目玉として、ソフィアが窮地に陥ると魔法でシンデレラたち歴代プリンセスが現れソフィアにアドバイスしてくれることがあります。
「Happily Ever After」のように、過去のプリンセスストーリーを参考にしながら、自分だけのプリンセス像を求めていきます。
ソフィアは友情や正直さなどプリンセスらしさを学びながら、「ひみつのとしょしつ」編では物語の守り人として未完の物語に結末を与える役割を始めます。
そんなソフィアは人気を受けて同世界観の作品「アバローのプリンセス エレナ」が制作されることになります。
ソフィアとエレナのクロスオーバーエピソード「エレナとアバローの秘密」は、エレナのオリジンを描く一方、ソフィアにとっても非常に重要なエピソードとなっています。
「ひみつのとしょしつ」で、エレナというプリンセスが魔女との戦いでペンダントに閉じ込められてしまったことを知ったソフィア。
エレナを解放して彼女の物語を与えるため、ソフィアが冒険に出かけるエピソード。
ソフィアから見る「アバローのプリンセス エレナ/エレナとアバローの秘密」|舞浜横丁
ここでソフィアは、空飛ぶ生き物に乗ったり、人魚になって泳いだり、舞踏会でダンスしたり、これまでのエピソードでチャレンジしてきたことを活かしてエレナを救い出します。
これはソフィアにとってプリンセスになるための最終試験であり、これ以降歴代プリンセスが登場することはなくなります。
代わりに、他の知らないプリンセスがピンチになるとソフィアが呼び出されてアドバイスを与えるエピソードが出てきます。
つまり、ソフィアは名実ともにプリンセスになれたのです。
ソフィアが映画ならここで終わりでしょう。
しかしTVシリーズであるソフィアの物語はここでは終わりません。
「ひみつのとしょしつ」編に代わり、「しんぴのしま」編が始まり、ソフィアは魔法の守護者としての活動を始めます。
最終話のラストでソフィアは一人前の守護者となります。
姉のアンバーが次の女王、兄のジェームズは騎士、ソフィアは守護者になることを選びます。
そして最後にソフィアはアンバーに対して「アンバー1世だね」と言います。
「ソフィア1世」を目指したソフィアの物語が、ソフィア自身はドレスではなく守護者の服を着てアンバーに「アンバー1世」の名前をあげて終わります。
プリンセスとして自分のHappily Ever Afterを見つけたソフィアでしたが、彼女のLife After Happily Ever Afterはプリンセスではなく守護者だったのです。
そしてこの最終話のタイトルは「Forever Royal」。
ソフィアは最終話で「プリンセスらしさ」ではなく「ロイヤルさ」と呼んで国を守る行動を取ります。
男の子であるジェームズも含めて、ソフィアたちが選ぶ道は「ロイヤルさ」のある道なのです。
プリンセスは「ロイヤル」に変わる。ソフィア最終話が見せた新境地|舞浜横丁

「悪魔バスター★スター・バタフライ」もディズニー・チャンネルのアニメーションシリーズで、魔法の国ミューニのプリンセスであるスター・バタフライの物語です。
作者が日本好きでセーラームーンの影響を強く受けています。
スターはプリンセスとして魔法のステッキを貰いますが、おてんばで魔法を正しく扱えるようではありません。そこで地球にホームステイさせられます。スターは地球でステッキを狙う悪と戦いながら、特におてんばが直る気配もなくわいわい楽しむ物語です。
でした。
シーズン1はわいわいするだけでしたが、シーズン2からプリンセスとして魔法の練習も始めることになります。
シーズン2の最後でミューニに危機が迫り、スターは急きょミューニに戻ることに。
そこで自分の心と向き合い、大きな魔法を会得したスターは敵を倒します。
これがスターが名実ともにプリンセスになれた瞬間です。
しかしスターも「Life After Happily Ever After」が描かれていきます。
いがみ合っていた人類と怪物の融和を図るなど、自分らしいプリンセス像を進めるスター。
そこに更なる敵が現れますが、なんと彼女こそ本当のプリンセスの血を継ぐもので、スターの家系は途中で取り替えられていたものだと判明します。
さらに女王が行方不明となり、女王代理になったスターは、シーズン3の最後で自ら王位を手放し、本当の女王である相手に託します。
プリンセスらしい行動を取ると立場上のプリンセスを失う、プリンセスのパラドックス状態を発生させた物語。
ここでスターは立場を捨て、自分の心に従う行動としてのプリンセスらしさを取ったのです。
スター・バタフライが見せるこれからのプリンセスの姿|舞浜横丁
最終シーズンであるシーズン4では自分らしい行動を取り続けるスターにさらに敵が現れ、ついにスターは魔法自体を消すことを決意します。
スターは「魔法の国のプリンセス」だったのに、魔法もプリンセスも失ってしまうのです。
さらに愛すらも失う覚悟でスターは自分の心に従った行動を取ります。
立場上のプリンセスらしさより、行動のプリンセスらしさの方が大切なのです。
スターが最初からプリンセスでなければこんな辛い決断をせずに済んだのではと思うほど観ていて辛いシーンでした。
ちなみにスタバでは、男の子がプリンセスになることを当然のこととして描き、プリンセスにおける男女の壁を取り払っています。

TVシリーズは長く続く物語のため、一旦プリンセスストーリーとして完成したような物語のその後まで描かれます。
現代のプリンセスTVシリーズが示したのは、立場上のプリンセスがもはや必要ないということでした。
そして、最後に辿り着くのは最初に目指した場所と異なるかもしれないのです。

7. 長編で「Life After Happily Ever After」を描く

アベンジャーズ/エンドゲーム(2019年)
シュガー・ラッシュ:オンライン(2018年)
トイ・ストーリー4(2019年)
アナと雪の女王2(2019年)

終わりに見えた物語にシリーズによって更なる結末を与えられるのは映画でも起きることです。
マーベル・シネマティック・ユニバースは20作品を超える映画で構成されることで、10年という長い軸で物語が描けます。
単独映画で自分のヒーロー像を見つけたキャラクターが、アベンジャーズシリーズでさらに自分を見つけていくのです。
『アベンジャーズ/エンドゲーム』では、初期メンバーにそれぞれ単独映画からさらに踏み込んだ結末が与えられます。
最も分かりやすいのがソーでしょう。
アスガルドの王子として生まれ、やがて王になるプリンスストーリーです。
しかしソーは『エンドゲーム』の戦いを通してヴァルキリーに王位を渡して自身は宇宙の旅に出ることを決めます。
トニーもスティーブもブルースも、思っていたヒーロー像と逆の人生を選択します。
自分の心に従って進んでいけば、目指してきた場所と最後に辿り着く場所が異なることがあるのです。
ディズニー・チャンネルのプリンセスとアベンジャーズのヒーローが同じ結末を辿るのは、プリンセスとヒーローの物語に垣根が無いことを象徴しているようです。

『モアナと伝説の海』以降、ディズニーとピクサーでは続編が連発されます。
一旦話が綺麗に閉じた後さらに続編が作られることで「Life After Happily Ever After」が描かれることになります。
『シュガー・ラッシュ:オンライン』では、ヴァネロペが自分の心に従い行動しました。
『トイ・ストーリー4』では、ウッディが自分の心に従いました。
ここで問題になったのが、自分の心に従うなら何を選択しても良いのかということです。
映画ではやはり時間が少なく、続編で前作と違った道を選択すると、前作で観客が気に入っていた結末を否定しかねません。
自分の心に従った道に進むためには、過去や自分の立場をといったこれまでの積み重ねと向き合うことが必要になります。
この向き合いが足りないと、自分の心に従うことが単なるワガママになってしまいます。
それを受け入れる観客と向き合いが足りないと感じる観客で賛否両論が起きてしまいます。

前作と違った道を選択する作品が続く2019年の最後を飾ったのが『アナと雪の女王2』でした。
アナ雪の強みは、前作があまりに大ヒットしたため、全員が観ている前提で話を進められることです。
さらに前作のハッピーエンドはアナのハッピーエンドでごまかしていたため、続編でもエルサの物語はスムーズに進めやすくなっています。
エルサの物語がしっかり完成された一方、前作でなんとなくハッピーエンドを掴んでいたアナの物語が複雑になります。
アナは典型的なヒロインで、とにかく明るくポジティブ。
前作で真実の愛を知り、ついにプロポーズ目前です。
そんなアナが2では怒りの感情を覚え、オラフまで失います。
オラフが消えるということはエルサが死んだことを悟ったアナは孤独を感じますが、ここで歌うのが「The Next Right Thing」です。
アナの人生における全てを失った中で、残された唯一の存在である自分自身と向き合い、自分の心に従って一歩ずつやるべきことをやることを決意する歌。
ここで彼女はアレンデールの女王としての自覚を持ちます。
それが自分が追い求めてきた道と違う方向だとしても、自分の足でその道を歩む決心をして行動します。
この覚悟があったからこそアナはエルサと分かれて暮らし女王になる結末を選択できたのでしょう。

2010年代の前半が「Find Your Happily Ever After」なら、後半は「Life After Happily Ever After」を描いてきた時代でしょう。
そのためには完成された映画に続編を与えることは必要な動きになります。
そして2010年代の最後に『アナと雪の女王2』で「Life After Happily Ever After」を描ききったと思います。
TVシリーズは最先端の価値観を描きやすいですが、これをディズニー長編アニメーションとして残していくことはまた重要なことでしょう。
85年にわたり紡がれてきた「プリンセス像」は、もはや「プリンセス」と呼ぶことがおかしくなってきました。
その未来はどんな物語になっていくのでしょうか。

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 - 駄話  - by poohya

カントリーベア・シアターはなぜ熊なのか、あと同じ名前3人いる問題 #カンベアドベント

この記事は「Country Bear Theater Blog Advent Calendar 2019」5日目の記事です。

今年は「ディズニー関連ブログ Advent Calendar 2019」に加えてカンベアドベントのお誘いも受けました。
カンベア愛の強い皆さんに混ざって語るのは恐縮なので、熊の話を2つしようと思います。

カントリーベア・シアターはなぜ熊なのか

ミッキーマウスを筆頭にディズニーは様々な動物を擬人化しています。
しかし熊のキャラクターはそんなに多くありません。
ジャングルブックやブラザーベアは自然界の熊ですし、プーとかダッフィーはぬいぐるみ。
ミッキーマウスクラブとかには熊いますが、擬人化された熊のほとんどがカントリーベアバンドのメンバーということになります。
白い手袋がミッキーたちの擬人化の証と言われることもありますが、熊は手袋をつけることなく、凶暴そうな爪を見せています。
熊は元々2足歩行ができるのでそのままでも擬人化しやすいのですが、彼らは自然界の熊っぽいわけでもなく、表情は分かりやすくなっています。
ヘンリーのおじいさんは1848〜1928年まで80年も生きていますが、熊の寿命は40歳程度が世界記録であり、80年も生きられません。
かなり人間に沿って設定が作られています。

ではカントリーベア・シアターはなぜそんな熊のアトラクションになったのでしょうか。
歴史を辿ってみても、熊はヨーロッパからアメリカ、日本まで幅広い地域に生息し、そこそこ人間と近い距離に住んでいました。
各地域で共通するのは、熊が生身の人間では到底勝てない「強い」存在であること。
『ブラザーベア』で描かれている通り、ネイティブアメリカンには精霊のような存在でした。
ヨーロッパではドイツのベルリンの紋章が熊です。ベルリン国際映画祭は「金熊賞」ですね。
強い存在である熊は、倒すことで自分の強さの象徴とできます。
熊狩りが流行った理由には自分の強さを示せるということがあります。
熊のカーペットも同じような理由ですね。

熊狩りといえば、第26代アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルト。
彼は熊狩り中に弱った熊をマンシップに反するとして撃たず、これが新聞記事となり「テディベア」という名前が生まれたという有名なエピソードがあります。
そんなテディベアを最初に作ったとされるのが、熊が紋章になったベルリンのあるドイツのメーカー「シュタイフ」です。
創業者マルガレーテ・シュタイフは、世界初のぬいぐるみとされる小さな象を作りました。
その後様々な動物のぬいぐるみが発売されますが、20年後の1902年、マルガレーテの甥リチャード・シュタイフが初めてテディベアを作ります(ルーズベルトの件が起きテディベアと名付けられたのは翌年)。
この世界初のテディベアとされるのが「55PB」。
PBとはドイツ語でPlush(フラシ天)Beweglich(可動)ということ。
当時のテディベアの中身はモヘアが主流で硬く自立でき、手足が動く仕組みでした。
ぬいぐるみが柔らかい素材になるのは後年のことで、イーヨーの尻尾が外れた時に釘で付けているのは釘を打ち込めるほど硬く当時の修理法として存在していたからです。
では「55」は何かというと、座高。
最初のテディベアは座高が55cmもあったのです。
でかい。
座高55cmで硬めで手足が動き2足で立たせられる。
最初のテディベアは強そうながら人間のものとして愛せる存在でした。
その後リヒャルトは28PBを考案し、この座高28cmの熊がテディベアブームを巻き起こします。

人間の熊への見方を辿ると、強く圧倒的な存在、倒すことで自分の強さを誇示できる存在、逆に倒さないことで自分の愛情深さを示せる存在となっていったことがわかります。
カンベアに戻ってきましょう。
カントリーベア・シアターは元々ウォルトが作ろうとしていたミネラル・キング・スキーリゾートのアトラクションとして企画されました。
スキー場ですから、ディズニーランドに比べて非常に自然と向き合って遊ぶリゾートになります。
強い自然の象徴である熊を、過度に擬人化しすぎず、楽しいショーを見せてくれる存在としてスキーリゾートに入れるのは、自然と対するリゾートに必要なことだったのかもしれません。
結局スキーリゾートは自然の権利が争われ頓挫し、カントリーベア・シアターはディズニーランドに導入されます。
マジックキングダムのフロンティアランドに導入されたカントリーベア・シアターは東京でも同じウエスタンランドに導入されました。
熊を介して強い自然の象徴と向き合うのは、スキーリゾートで企画された時と現在の西部開拓時代と共通することなのかもしれません。

同じ名前3人いる問題

次の話は、再び登場のセオドア・ルーズベルトから。
先述の通り、テディベアはセオドア・ルーズベルトにちなんで名付けられました。
なぜセオドア・ルーズベルトにちなんでテディベアなのかというと、セオドアの愛称がテディだからです。
カタカナでは一文字も合っていませんが。
Theodore→Teddy。スペル見ても無理がないか…
東京ディズニーシーのテディ・ルーズヴェルト・ラウンジもセオドア・ルーズベルトがテディと呼ばれていたことにちなんでいます。
通称「熊バー」なのもこの逸話があるから。
ではテディの愛称は何かというと、テッド。
Teddy→Ted。これはわかる。
ここでふと思います。
カンベアにテッドいるけれど、テディ・バラと名前同じじゃない?

テディ・バラのスペルはTeddi Berra。
Teddiの名前で調べると、1950年代に活躍したアメリカの歌手Teddi Kingが出てきます。
名前ここから取ったのかな?
彼女は本名がTheodora Kingで、Theodoraの愛称はTeddi、Teddie、Teddyがあります。

実はテディになれる名前がもう一つあります。
それが、エドワード。
エドワード。
Edward→Teddy。さっぱりわからない。
調べても、アメリカ人でも何故かはよくわからない、みたいな答えが出てきました。
とにかくエドワードの愛称はテディなのだそうです。
「クマのプーさん」(原作)の冒頭では「Here is Edward Bear」としてぬいぐるみのプーが紹介されます。
これはエドワード→テディを逆に捉えて、テディベアのことをエドワードベアと呼んでいるわけです。
そして、カントリーベア・シアターのリーダー、ヘンリーは「ヘンリー・エドワード3世」なんだそう。
つまりヘンリー・テディになれるわけですね。
カンベア3人目のテディが登場しました。
オスカーが持っているテディベアも入れちゃえば4体ですよ。
熊のショーとはいえテディだらけ。

ところで、ヘンリーはテディ・バラの恋人。
恋人同士が同じ名前なの?
結婚したらテディ・テディになる可能性もあるの?
アメリカの名前と愛称はよくわかりません。

以上、「Country Bear Theater Blog Advent Calendar 2019」5日目の記事でした。

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