*

劇団四季『ノートルダムの鐘』を観た

ノートルダムの鐘を観てきました。

色々な方が言っている通り、舞台装置や演出はさすが。
これだけで観る価値はあったなと思います。
ストーリーは「元々『ノートルダムの鐘』はあまり好きではなく、舞台版で大きく変わったけれどそれはそれで微妙…」といったところです。

以降はネタバレ含む感想を。

<目次>
舞台版とアニメーション版の両方について書いていたらあまりに長くなった(5,000字)ので目次つけました。

物語のテーマを表現する見事な舞台演出

舞台の中央に大きな鐘が降りてくるなど、舞台装置はさすが。
全編を通して、大聖堂のセットを動かさないのも特徴です。
また、柵を牢屋に見せるなど、小道具が流用されているのもこの舞台ならでは。
小道具の流用は、ガーゴイルたちが上着を脱ぐだけで街の人に変わる演出にも通じます。

同じ背景で舞台が切り替わり、小道具や演者の役もどんどん切り替わります。
カジモドの登場シーン、普通の青年が歩いてきて、「What makes a monster and what makes a man」と歌いながら醜いカジモドに変貌を遂げるシーンが印象的です。
この舞台ならではの表現によって、舞台版ノートルダムのテーマ「What makes a monster and what makes a man」つまり、同じ物や人が違うものに変貌していく、その違いは何か?何が違いを生むのか?というテーマが、舞台演出によっても表現されています。
カジモドの登場と、最後のサムデイでの人々とカジモドの対比は見事です。

あと聖歌隊良いですね。

ストーリーはアニメーションから原作寄りにしたけれど…

久しくアニメーション版『ノートルダムの鐘』を観ていなかったので、この機会に見なおしました。
そこで思い出した大事な事実「ノートルダムの鐘あまり好きじゃない…」。
オープニング曲やOut Thereのアニメーション、それぞれの曲には親しんできましたが、全編通じたストーリーを久しぶりに追ってみて、いまいち好きではないことを思い出しました。
今回の舞台版では、このストーリーがかなり改変されていて、原作に寄ったストーリーになっています。
恥ずかしながら原作を読んでおらず、ディズニー版とはこんなところが違う程度の知識しかありませんが、それでも舞台を観ながら原作寄りの話だなとわかるくらいです。
アニメーション版からストーリーが変わったおかげで、好きではないストーリー部分が修正されました。
しかし、それはそれで別の引っかかるポイントが出てきてしまったかな、という感想です。

舞台で複雑な人物描写が可能に

一般的にアニメーションの舞台化は、主人公だけでなく周りの人物の心理描写もしっかりと描けることにポイントがあると考えています。
舞台版「ノートルダムの鐘」では、フロローを単純な悪役でなく、なぜジプシーを憎み悪になってしまうのかの過程が描かれます。
これこそ、アニメーション版のテーマ「What is a monster and what is a man」と舞台版「What makes a monster and what makes a man」の差を生み出します。
見た目は醜いけれど心は優しいカジモドと、権力者で聖人のようだが悪役になるフロローという、美女と野獣的構図になるアニメーションに対し、同じ人間を怪物にするのは何かという変化に力点を置けるのが舞台版です。

Out Thereの弱さ

舞台版では原作に寄り、大人向けの重厚な物語になりました。
本来この物語はアニメーションより人が演じる方が合っているなと思ってしまいます。
これは第二黄金期後半特有の場をわきまえないギャグ要素などのせいもありますが…

『ノートルダムの鐘』は、オープニングやエンディングの雲の中から大聖堂が見えるカット、Out Thereの壮大なシーンなど、大きく外の世界を見せる割にはカジモドは目の前の広場(と奇跡の法廷)しか外に出ない、という問題があります。
長年高いところから世界を眺めるだけ、外の世界に出て見たいという気持ちは『塔の上のラプンツェル』の図式で、「When Will My Life Begin」は「Out There」ですが、ラプンツェルがリプライズで外に出た気持ちを表現するのに対して、アニメーション版のカジモドはトプシー・ターヴィーの途中にさらっと外に出ます。
舞台版ではOut Thereで外に出てそのままトプシー・ターヴィーへと繋がります。
つまり『ノートルダムの鐘』は本来壮大なカットを入れたりパンとシーンを切り替えたりする必要のない物語。
アニメーション版はOut Thereを際立たせるために壮大なカットを入れていますが、話としては邪魔。
同じセットを様々な表情で使い、風景は観客の想像に委ねるやり方のほうが合っていると思います。

しかし大聖堂の上と下を行き来するだけの話では、こじんまり感が出てしまいます。
外に出た後のトプシー・ターヴィーはクロパンやエスメラルダ、フィーバスと新登場人物が多く、カジモドの気持ちは出てこないので、カジモドが外に出ることに対する想いは全てOut There内で表現しなければなりません。
その割にはOut Thereの押しが弱いかなという印象。
これはアニメーション版Out Thereのシークエンスのイメージが強いせいなのかもしれませんが…
主題歌が強いノートルダムの鐘、曲数が増えてサムデイまで劇中に入ってくる舞台版ではOut Thereの存在感が薄くなってしまいます。

アニメーション版も舞台版も帯に短し襷に長しで煮え切らない感想ですが。。。

エスメラルダを巡る想い

物語の推進力は、エスメラルダの取り合い。
アニメーション版では、ヘルファイアにつながるフロローがエルメラルダに想いを寄せるまでの過程があまりに無さ過ぎる点がどうなのかと思っています。
その点舞台版では、弟に絡んだジプシーに対する思い、聖人としての神への思いと背負った自覚のある十字架、それに対してエスメラルダを愛してしまうという葛藤がしっかりと描かれています。
その葛藤の中で、行動が変わっていき、怪物と化す過程がわかります。

カジモドのエスメラルダへの思いも舞台版ではしっかり描かれます。
アニメーション版ではガイ・ライク・ユーがありますが、いまいち好きではありません。
というのも、エスメラルダへの恋心がガーゴイル3人の意見によって気付くから。
ガーゴイルが動くのは魔法的な何らかの力が働いています。
つまり、外部の何らかの力によって動くガーゴイルによってカジモドの心が動いていくのです。
一方、それ以外の動かない像たちは何の役もないかというと、そうではありません。
プロローグでフロローがカジモドを育てると決心するシーン、フロローの最期のシーン、それぞれ大聖堂の像が神の使いのように見え、それに怖気付いてフロローは大きく動きを変えます。
像は見る人の心によって表情を変えるといいます。フロローは自分の心を投影した像の表情に負けました。
それに対してカジモドが気持ちを変えるガーゴイルたちはカジモドの心で動いているわけではありません。
舞台版では、3人だけでなく多くのガーゴイルがカジモドと会話し動きます。
それが魔法的な何らかの力なのか、カジモドが勝手に会話し動いているように見えるだけなのかははっきり描写されません。
カジモドのエスメラルダへの想いも、カジモド自身が自覚しています。

もう一人エスメラルダに想いを寄せる人物、フィーバス。
彼のアニメーションと舞台での描かれ方の差はエンディングに大きく関わるので詳しくは後述になりますが、舞台版では戦場がもう耐えられなくなり心も休めに来た軽い男として描かれています。
そのおかげでエスメラルダにも早々に好きになり、エスメラルダと正式な恋仲となります。
エスメラルダはフィーバスへの想いを利用され、エスメラルダもフィーバスも死ぬかフロローのものになるかという選択を迫られますが、結局フィーバスの死は決め手に欠けて死を選びます。ならフィーバスの命がかかる取引条件いらなくないか…
戦争帰りという背景があるおかげで、フロローに反旗を翻すまでの心情もはっきり描かれます。

エスメラルダがフィーバスを選ぶ前、カジモド、フロロー、フィーバスがそれぞれにエスメラルダへの想いを歌い、重なり合うのはまさに舞台らしい表現です。

エンディング

フィーバスはアニメーションではハッピーエンディングにするため突然再登場し、カジモドを救います。
ここでカジモドが手を取らせ合い、お互いの気持ちをはっきりさせるという展開。
アニメーション版はこうすることでカジモドの想いの整理ができ、「美女と野獣で野獣が王子に戻ったら意味ないじゃん問題」を避けています。

舞台版ではエスメラルダはフィーバスが好き。結局顔かよ。
そんなエスメラルダはフロローに歯向かい大怪我をおったフィーバスを大聖堂にかくまわせようとします。
カップルの彼女が好意を寄せる男性の家に怪我した彼氏を置いて面倒見てと頼み去っていくとか、普通に見たら好意の悪用か単なる嫌がらせです。
カジモドは、エスメラルダもここに隠れ住むよう勧めますが、ジプシーは自由が必要なのだと拒否。
エスメラルダに利用されたカジモドは、特にエスメラルダの侵入を察知した描写があるわけでもないフロローにも利用され、奇跡の法廷を発見されてしまいます。
王を騙し騙し権力を得て、エスメラルダと彼氏の命を取引条件として死刑とするフロロー。まさに聖人が怪物となった瞬間です。
カジモドは縛られていますが、再び民衆の元に姿を現しエスメラルダを救うことを決意。
しかし息を吹き返さないエスメラルダ。フロローとの戦いの末、ついにカジモドはフロローを殺します。
エスメラルダはそのまま天国へと旅立っていきます。
最後、カジモドがエスメラルダの亡骸を抱きかかえたまま死んでいったことが語られます。

カジモドはフロローとは違い、確かにエスメラルダから信頼されていましたが、愛は受けていません。
それでフロローを殺すのも結局私刑ではないのか?それでエスメラルダの亡骸に寄り添うのは美しいのか?と思ってしまいます。
本来寄り添うのはフィーバスでしょう。
カジモドはフィーバスからエスメラルダの亡骸を取り、フィーバスはしれっと退場します。
一方的な愛で行動するのではフロローと変わりません。
それならエスメラルダとの関わりで愛を知り、外の世界を知り、いろいろあって他の女性とちゃんと出会う『ノートルダムの鐘2』の方がちゃんとしているのではないかと。

What makes a monster and what makes a man

舞台版では、聖人として生きてきたフロローに対して堕落した弟とジプシーの間に生まれた「出来損ない」カジモド。
彼ら怪物を人に治すのが自分への試練だと信じる聖人フロロー。
しかしそのおごった気持ちがフロローの心の中に怪物を生み出します。
外見だけでなく生い立ちからして見た目は怪物のカジモドと人のフロロー。
そんな2人が、人の心を持つジプシー、エスメラルダを通して怪物になるか人になるかという物語になっています。
人の心を求めるあまりエスメラルダに惹かれ、自らの怪物の姿を現してしまったフロロー。
一方のカジモドはエスメラルダに出会い、人とは何かを知ります。でもあの終わり方で人の心を持ったと言えるのか…
カジモドがすっきりしない原因は、エスメラルダがフィーバスとしっかり恋に落ちているから。
フィーバスの心の葛藤も描かれていますが、主に上司であるフロローについていくかどうかの葛藤。
フィーバスは女癖が悪く、原作では不倫関係というほど。
エスメラルダとの恋が純愛なら軽い男の設定はいらないし、不倫するような軽い男ならエスメラルダに惹かれて心改めるという心理描写もありません。
カジモドとフロローのエスメラルダを通じた物語にフィーバスが入り込むせいでテーマがぶれてしまっています。
準主人公ではなく、フィーバスがクロパン程度の話の進行に必要な人物という扱いだったら、もう少しすっきりしたのではないでしょうか。

ディズニーアニメーションをより重厚なストーリーとして見せるのはさすが舞台版。
しかし、重厚な原作を無理に軽くしようとしたアニメーション版、そのアニメーション版を重くした結果、変な歪みが生まれてしまったのかなと思いました。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加